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中国に関連して生じた事実

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https://blog.goo.ne.jp/fu12345/e/7cc5e1ad373775c11668b88a748c64a6 政治的文化的側面を中心に年代順に採録。
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2022年7月の記事一覧

王復興「文革中の心の歩み(上)」2018

訳出の対象は王復興「我的文革心路歴程」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.305-316 これを2回に分けて訳出する。今回はpp.305-309まで。著者は1965年に北京四中高中を卒業、同年北京大学歴史系に進学。在学中に文化革命を経験。現在は米国在住の民間文革研究者。 1940年代、王復興のお父さんは米国で中国共産党の政策を宣伝する新聞を発行するというかなり特殊な仕事をしていた。そのお父さんが1957年の反右派闘争で右派とされ、以降、著者の家族は鬱屈した生活を

王復興「文革中の心の歩み(下)」2018

訳出の対象は王復興「我的文革心路歴程」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.305-316 これを2回に分けて訳出する。今回後半はpp.309-316まで。著者は出身家庭に問題があるとして、紅衛兵活動に加われないなどの「屈辱」を経験する。そこから極左派に批判的になってゆく。さらに卒業後、1971年の九一三事件(いわゆる林彪がロシアに亡命しようとした事件)、さらに1975年の天安門事件を経て、文革やそれ以前の教育の影響から次第に離れたことがつづられている。 p.3

王德禄「高考1977:永遠の感動」1976-1993, 2014出版

 王德禄は1977年の高考組だが、自分の希望したところとは異なる華東石油学院(現中国石油大学)物理系に合格する。挫折なのだが、そこから立ち直ってゆく。進学時、学校はまだ整備途上。設備環境のひどさが語られる。 改めて思うのは(日本でも同じだが)、みんなが北京大学や清華大学など一流大学に行くわけではないということだ。では准一流とか二流に進んでからどうするか。そこで待ち構えているもには何で、それにどう対峙するのか。教員に関しては(日本でも同じだが)、どの大学にもいろんな先生

王紹光「大学の夢、期せずして実現(上)」1972-78, 2013/12

王紹光「大学夢、不期而至」『那三届 77,78,79级大学生的中国记忆』中国对外翻译出版有限公司2013年12月pp.9-19 2回に分けて訳出する。今回はpp.9-15まで。筆者は1977年北京大学法律系に進学。その後、米コーネル大学で政治学博士。王紹光には以下の著述がある。 Wang Shaoguang, Failure of Charisma:The Cultural Revolution in Wuhan, Oxford University Press, 199

王紹光「大学の夢 期せずして実現(下)」1978

王紹光「大学夢、不期而至」『那三届 77,78,79级大学生的中国记忆』中国对外翻译出版有限公司2013年12月pp.9-19 2回に分けて訳出する。今回は後半pp.15-19まで。  1978年2月28日、王は北京に到着して、夜、北京大学に到着する。果たして入学した北京大学は夢に描いた理想の場所だったかどうか。王が直面したのは研究能力はあっても、講義が下手な教員。情報が集まるのではなく、情報から閉ざされた大学。北京大学が夢に描いた大学でなかったのは文革の影響のためだろうか?

王筑民「学習生活:1957年秋」2012/10出版

 著者は貴州出身。1957年に高考を受験し、第一志望の北京大学哲学系から合格通知が来た。貴州全体では4人が北京大学に合格したとのこと。ただ残念なことに翌年、病のため1958年2月に北京大学を離れている。その後、貴州大学中文系に進み、中国古代文学の研究者となった人である。ただ短期間で退学に至った経緯から以下の思い出の時期は1957年秋と特定できる。以下はその人の「心を弾ませたがしかし残念な回憶(激动而遗憾的回忆)」という文章の一部から。『青春歳月在北大』社会科学文献出版社201

謝錦華「非北大哲学系不読」2012/10

標題の直訳は「北京大学哲学系で学んでないこと以外について」。ややひねくれた題目だが(多分、遊びで付けた題目で)、素直に書けば「北京大学系で学んだこと」。『青春歳月在北大ー哲学系1957級同学回憶録』社会科学文献出版社2012年10月pp.144-145  1955年、私は故郷の「合肥一中」を卒業した。同学は現在合衆国の有名中国人「楊振寧(訳注 1957年ノーベル物理学賞受賞。1964年米国国籍取得。2003年から清華大学に長期滞在。2015年米国国籍放棄。その政治的発言には

趙福中「北大回憶三則」2012/10

三則とあるが則は文章の数を数える量詞。『青春歳月在北大ー哲学系1957級同学回憶録』社会科学文献出版社2012年10月pp.137-139より。この人も1957年から北京大学哲学系で学んだ。この趙福中の文章を最初は、三番目の大躍進のときの下放の話を採録する目的で読み始めた。しかし読み返すと、最初の朱教授による論文指導の話、そしてそのつぎの林教授によるバレーボール指導の話、いずれも味わい深い。  なお大躍進のスローガンのもと、「深翻、密植」という方法で増産をはかったこととその失

趙京興「私の読書と思考(上)1966-1967」2012/03

 訳出の対象は趙京興「我的閲読与思考」『暴風雨的記憶』三聯書店2012年3月pp.341-362。その前半pp.342-355を2回に分けて訳出する。今回はpp.342-349まで。  「社会主義社会」は、一面で共産党の高級幹部という新たな貴族を作り出した。そこで出てくる疑問は、文化大革命というひとくくりにされる動きの中に、実は中国社会の現状に対する疑問や批判も隠れていたのではないか?というのが、この趙京興の文章から浮かび上がる疑問である。最初に趙京興は社会が教える人生観に疑

趙京興「私の読書と思考(下)1967-1969」2012/03

訳出の対象は趙京興「我的閲読与思考」『暴風雨的記憶』三聯書店2012年3月pp.341-362。その前半pp.342-355を2回に分けて訳出する。今回はpp.349-355まで。  まず北京図書館が文革のさなかに開放されていたことと、その様子が興味深い。閲覧者同志の交流も貴重な記録といえる。そしてそのあとだが下放を避けようとする、この人のロジックが興味深い。自分はただしく理論を理解することで貢献したい、ということをはっきり主張している。しかし私の考えでは、さまざまな思考が許

1986年12月の学生運動について

 1986年末の学生運動についての正確な実態は公表されていない。しかし『中国共産党的九十年』中共党史出版2016年6月p.738は、つぎのようにその 影響として総書記の交代を伝える。「党の十二届六中全会決議(訳注 2016年9月28日)が強調した精神文明建設中のマルクス主義の指導地位を強め、資産階級自由化に反対するとの内容は、すぐに真剣な力で貫徹されなかった。1986年末、多くの(不少的)都市で学生運動(学潮)が発生し拡がった。1987年1月16日、中央政治局は拡大会議を開き

魏京生の逮捕 1979/03/29

 北京西単のバスの停車場のそば。200メートルほどの壁に、壁新聞が張られるようになったのは1978年春頃からだとされる。その中で魏京生が1978年12月5日に張り出した「五番目の現代化」と題した壁新聞は広く注目された。そこで「われわれを天下の主人とすること、我々を独裁統治者が野心を拡張する現代化の道具とせず、我々が人民生活を現代化できること、人民の民主、自由と幸福が、現代化を実現する唯一の目的であること、この第五の現代化がなければ、すべての現代化は新たなたわごとに過ぎない。」

陳寅恪への批判と陳寅恪による不開講の申し出 1958年7-8月

 歴史家陳寅恪(チェン・インコウ 1890-1969)が学内での批判のターゲットにされたのは1958年7-8月。これは時期としては、1957年6月から始まるいわゆる反右派闘争から1年遅い。他方、馬寅初(マア・インチュ 1882-1982)の人口論に対する批判は、ほぼ同時期1958年に始まるが、収束せず翌1959年にpeakに達するほど長く続き、最後は1960年に馬寅初の北京大学校長辞職を招いた(見出し写真は1957年陳寅恪自宅での講義の様子である)。  これと比較して、陳寅恪