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趙京興「私の読書と思考(下)1967-1969」2012/03

訳出の対象は趙京興「我的閲読与思考」『暴風雨的記憶』三聯書店2012年3月pp.341-362。その前半pp.342-355を2回に分けて訳出する。今回はpp.349-355まで。
 まず北京図書館が文革のさなかに開放されていたことと、その様子が興味深い。閲覧者同志の交流も貴重な記録といえる。そしてそのあとだが下放を避けようとする、この人のロジックが興味深い。自分はただしく理論を理解することで貢献したい、ということをはっきり主張している。しかし私の考えでは、さまざまな思考が許容される世界で初めて、このように独自の思考を発展させる人は評価されるのではないか。そして脱走の話があり、下放の場所にも、どうも人気ランキングがあったことがわかる。

p.349       三 北京図書館
 1967年中から1967年末まで、文化大革命が炎のように赤く、茶の花のように白く盛んであった(如火如茶)とき、北京図書館は開放されていた。『金瓶梅』や『チャタレー夫人の恋人たち』のような 淫乱猥褻(淫秽)図書に分類されたある種の文学作品を除いて、一律に制限なく(敞開)閲覧できた。これは今日の人から見ると、おそらく信じがたいことだ。
 あの頃、私は風雨をものともせず、通わない日はなかった。毎日早朝4時に起床し、私は乾燥した食物(干粮)を手に、北海公園そばの北京図書館大門の外の列に並んだ。毎日の入館できることを確保するため(毎日200余りの座席番号が出されるだけであった)、併せて前日読み終わっていない本を継続して借りるために、唯一の方法は早くゆくことだった。堪えがたかったのは冬の日で寒い中,ニ三時間(両三個小時)立つのは一種の試練(考验)だった。北京図書館は中南海の北門に面しており、そこでは日夜人がいて警備していた(站岗放哨)。警備の戦士は彼らと年齢の近い学生にとても関心があった、最初は常にやってきて尋ねるのは何事かと思ったが、時間が経つと慣れてしまった。
 大量の文史哲書籍の閲読のほか、各方面の友人と交流した、思想を拘留し、読書の喜びを分かち合った。北京図書館は開放がそうであったように突然閉鎖された。あの友人の多くがどこに行ったかは知らない。のちに往来を保ったのは、林大中、林大慶の二人の兄弟である。林大中は私より数歳年長で、当時は北京モーター車工場のエンジニア(技術員)だった。彼の関心の中心は文芸批評で、姚雪垠の『李自成』に対してかなり研究していた。林大慶は私より数歳若く、借りるものは主に楽譜とロシア文学だった。彼は成長して私の想像の中では(ドストエフスキーの)「白痴」のムイシュキン(梅茨金)公爵のようになった、後に電影学院に進み、最後は映画監督になった。
p.350 私の記憶の中でなお新しいのは、一度中国階級の区分(划分)問題で討論したことである。
 当時誰もが乾燥した食べ物を持参していた、図書館は煮沸した水を提供した。昼になると大部屋や階段の隅に集まって、食べながら話した。ある日、私と年齢の近い学生とマディエ(馬蒂厄)の『フランス革命史』について話し合った。彼は中国には地主階級、資産階級といったものはなく、ただあるのは官民の二つの階級だと考えた。その時私は社会力量を用いて中国の異なる社会集団を叙述する傾向があり、階級概念を用いることで中国の社会構造を正しく把握できないと考えた。すなわち階級概念を使用することは、中国歴史と現実の中の中国社会構造を官民二つの階級といったものに過度に単純化している。いずれにせよ、この観点は私の脳裡を多年まとわり続けた。のちの私の研究結果からすれば、当時の社会関係から言えば、それは真理にもとも近かった。
 1967年末に、北京図書館は閉鎖されたが、私の読書生活は中断しなかった。私はしばしば旧書店をうろついた。あるいは廃品集積所に居て、他人の手にあり廃棄処理となった旧書を買った。あるいは同窓生と互いに融通した、かれらはほとんど書物については無知だった。
 この箇所を書くために、私は特に近年出版された『文化大革命簡史』『中国国家図書館館史(1909-2009)』『中国国家図書館大事記(1909-2009)』を閲覧し、文革期間に北京図書館開放されたことが一字も触れられていないことを発見した。私はこれらの本の編著者は「焚书坑儒」の時代に、なぜ北京図書館が開放されたのかを説明できないと、推測している(猜想)。

                 四     壁新聞と隔離審査
 文革が爆発してから1969年初めまでに、私は3枚の壁新聞を書いた。
p.351     1枚目は同じクラスの同窓生劉力前と一緒に書いた声明で、理由はとても簡単である。劉力前の父親は全国総工会の普通幹部、私の父親は「独立労働者」で、ともに紅五類ではなく、また黒五類でもない、我々は我々が大連携(大串联)に参加する権利をはく奪することは毛沢東思想に違背すると考えた、当時のロジックではこれは「造反有理」である。我々二人は言った、できることをすると、白日のもと(光天化日之下)代表権力の事務室をこじあけて(撬开)公印を取り出し、外出証明書何枚かに公印を押した。これは紅衛兵組織の質問と集団攻撃を招いた。私たちの行動の合理性を説明するため、私は筆を一気に振るって(奋笔疾书)この壁新聞を書いた。これは私の「文革」中唯一のあからさまな(一次)造反行動だった。読書の興味が日々濃厚になるなか、私の社会実践へ参与する衝動はますますちいさくなり、読書は私の最も熱愛する実践になった。
 一枚目は「出身論」を支持することを提起した壁新聞(大字報)だった。三枚目の題目は「わたしはなぜ上山下郷に行かないのか?」で、毛主席が知識青年に上山下郷の指示を発表して間もなくである。すなわち1968年末から1969年初め、私が上山下郷に行かない理由をの申し述べるためのものである。今日から見るとこの壁新聞の題目は、身勝手に過ぎたものである(过于胆大妄为了)。毛主席の呼びかけに応じないだけでなく、敢えて公然と工宣隊に挑戦(叫板)するのであるから。毛主席の著作を熟読し、それを自在に扱って(得心应手)、私はまず毛主席の貧下中農再教育指示の含意を概念から詳細に述べ、そのあと毛主席の「中国共産全国宣伝工作会議上の講話」を引用した。この文章中の言い方に従えば、貧下中農の再教育は3種の形式がある、一つは馬を走らせながら花を見る、二つは馬を降りて花を見る、三つは家に落ち着いている(安家落户)である。私は壁新聞の中で書いた、家に落ち着いているとしても、これも皆さんが言う上山下郷ではないのか。純粋に
p.352   就業問題を解決するものではないのか。また私の志向は理論研究に従事することである。馬を走らせながら花を見て、馬を降りて花を見て農村を理解で農民を理解し、貧下中農の再教育を受ける。(それも良いが)私は使用文字の詮索(抠字眼儿)が好きであり、いかに正確に経典作家が用いる概念をいかに正確に理解するかを注意重視する。とくに「文革」中伝わった毛主席の指示について、私はこれもまた彼が一貫して唱導した学習方法だと考える。毛主席は『党委会の工作方法』という一文の中でとくに「党内共同言語(語言)」の重要性を強調している。私が見るところでは、以下の人々は毛主席の言葉を理解せず、毛主席の指示を歪曲している。私は真理をつかんでいると考え、恐れるところがなかった(理直气壮)。
    本来、工宣隊は私が終日『資本論』を奉って毛主席の著作を学ばないことに不満で、私に「なぜ社会主義社会においてなお「資本」論を読む必要があるのか、と質問していた。今回の壁新聞はちょうど口実を与え、まさに「階級隊伍を整理(清理)しているところで、彼らは私を学校で捕らえて隔離審査にした。それは1969年の春節の前で、押し込められたのは四中の音楽教室の小さな部屋だった。「八一八」以来そこにずっと閉じ込められていた「牛鬼蛇神」は、後には皆問題のある先生だった。私が閉じ込められたとき、廖錫端先生がなおそこにいた。私と前後して閉じ込められたのは、黄其煦と史康成、ほかにその他の人が居たが名前は皆覚えていない。
 その時、廖先生たしか満四十になったところ、われわれの目には良く学んだ(学富五车的)老先生だった。彼は我々のクラスの語学教師で、いつも教室以外の新知識を持っていた、たとえばレーザー(莱塞:激光)のような、私の記憶はなお新ただ。私たちは彼を親しく廖先生と呼んだ。
p.353   押し込められている間、彼の部屋は対面にあり、毎日彼は頭を低くして数人の学生により労働に連れてゆかれた。しかし挨拶する機会がなかった。改革開放後、廖先生は連続して三年北京市の高考状元(筆頭者)、その後北京において高考復読学校を主宰して多くの人材を育成された。数年前に我々のクラスの同窓生の有志が、先生の八十の大寿を祝ったところである。
 私と大康(史康成)は当時はあまり親しくなかった、ただ彼が一度、比喩を使って外部で起こったことを伝えたことがあった。黄其煦は初三(一)班で、無線電信機をいじっていたとして、派出所から「特悪(徳嫌)」の名称で学校に送付された。彼と私は同学年で、時々話すことができた。
 学校の大権を掌握した工宣隊は、私の批判闘争会を数回組織した。あの「上山下郷」の壁新聞のほか、私に日記の一節、さらに私の「社会主義経済問題に関する対話」メモが取り上げられた。幸いたまたま(阴差阳错)、私を批判闘争する人は「哲学批判」の存在を知らなかった。
    「社会主義経済問題に関する対話」は「哲学批判」の後、書いたもので,手稿は早くに失われている。思い起こせる主要な観点には以下がある。一つは農業の社会化問題で、社会化は商品経済の発展を必要とする問題だということ、これは「哲学批判」の中に反映している。二つは銀行の社会経済中の作用問題。私は考える、資本主義経済危機のもっとも深刻な根源は工農業の間の社会化の連携の不足にある。国内市場の発展が制限され、資本主義の対外拡張が促される。(そこでこれは)農業と工業の関係を含めて内的生産社会化の実現を必須とする。農業社会化は、
p.354  土地に合わせた(因地制宜)基礎上での分業であり、商品経済の発展が必要である。社会主義経済において、銀行の作用は全社会資金の進行管理にあり、資金分配において核心作用を発揮する。のちに大学院生を受験した時、貨幣銀行学専業は明らかに密接な関係があった。今日一人の職業経済学工作者の目から見ると、この考え方は、研究結論は疑うのが適切で、それは歴史のロジックに由来するものだが、厳密な経済理論の基礎に欠け、また経験材料の支えも不足している。
 私に批判闘争する人はこのような観点を提起することはそれ自体は主君に逆らうもの(大逆不動)で、理由はとても簡単。毛主席が述べたことはない。自己弁護のため、私は次のように言えるのである。毛沢東思想もまた発展するものだと。ここでさらに罪が一つ加わる。林彪の「頂峰論」を犯したと。
 工宣隊の種々のやり方を、私は毛主席の「人民内部の矛盾を正確に処理する問題」の基本原則に違背すると考え、上告することにした。
 押し込められて1ケ月経ったとき(訳注 先に1969年の春節前に押し込められたとあったので、1969年の2月中旬と推定される)、私はトイレの機会に走って逃げた。トイレは学校の建物の壁のそばで、壁はとても高かったので、押し込んだ学生の見張り役は警戒していなかった。私はいつも鉄棒を練習していた、一度体を引き上げると軽々と壁を超えることができた。私は一路走って、同窓生を探して金を借りて永定門の停車場に向かい、汽車に乗って白洋淀をめざした。
 上山下郷は早くも1967年末には開始された。1968年になると大部分の同窓生は学校の手配の下、東北、内蒙古、雲南などの地の建設兵団に送られた。あるいは山西、陕西の農村に。残りの少数の人は自ら行き先を探した。二つの特別に人を引き付けた地方は、一つは東北の莫利达瓦、一つは河北の白洋淀だった。二つの土地は収入は高くないが、風景が美しく生存には適していた。一つは草原牧区であり、一つは北方の魚米の郷であった。北京師範大女付属中、清華付中等校
p.355   の同窓生は、1968年に続々と白洋淀に落ち着いていた(安家落戸)。その中に私の女友達の陶洛诵がいた。ここからはのちに詩人が輩出した。多多,芒克,根子のように。
   陶洛诵は北京師範大女付属中の高二の学生で、同じく『中学文革報』の一員だった。私は文学報を売るときに彼女と知り合った。学校に住み続けることへの逆風、街道(事務所)の圧力もあり、1968年末に彼女と何人かの京師範大女付属中同窓生は白洋淀に入った(插队)。私はかつてここで数日暮らしたことがあり、当地の地元の人との関係は悪くはなく、馬を降りて花を見るところであった。私は自然に白洋淀に行くことを考えた。
 陶洛诵は邸庄と呼ばれる小島の上に住んでいた。そこは数百戸からなる漁村だった。そこにほかに3人の師範大女付属中の同窓生、のちには彼女の弟と私のクラスの同窓生も来た。数多くの北京の地下詩人や画家がここに引き込まれた。彼らはここに足跡を残している。
 話を戻すと、私はひとたび白洋淀に着くと、すぐに毛主席、党中央に訴える手紙を書いた。そして北京に戻り手紙を中南海に寄せた。私は同窓生に家に住み込んだが、金も衣服もなかった。仕方なく弟に電話をし、弟が父親に伝えた。(父は)自身同様の経験のある人(过来人)で、逃げることで問題が解決しないことを知っており、そこで私を学校に戻した。しかし暫くして工宣隊は私を解放した。おそらく訴えの効果だろう。工宣隊の隊長は、私を探し出して談話をして、四中にはさらに二人わたしのようなものがいる。彼らは辞職させて遠ざけるしかない(就得卷铺盖滚蛋)。ここで得を使ったが、不得不(やむを得ず)という意味だ。
 この時は私は解放された。しかし災いの根は残っていた。1年経たずに、工宣隊は争う理由を求め、私を公安局に直接送ったのである。

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