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対立の表面化を1962年前半だとする説明を、以下を参照しながら述べることにする。 席宣 金春明《“文化大革命”簡史 第3版》2006年 魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年 陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年 黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年 等 写真は1962年1月27日拡大中央工作会議上。いわゆる7000人大会会議でのスナップ。左から陳雲、劉少奇、毛沢東、鄧小平である。陳雲が緊張して
毛沢東の読書リストについて 福光 寛 毛沢東(1893-1976)が、中国に「大躍進」や「文化大革命」など国難をもたらした一因に、彼の渉猟範囲が偏っていて、西欧で国王の王権が制限され、民意が選挙を通じて議会に反映されるようになる歴史を、そもそも学んでいないのではないか?という仮説を私は持っている。また彼が仮に読んだとしても。読んだのは中国語の翻訳を通してでありその翻訳の質の問題があり、また彼がそのとき持っていた教養の範囲で、内容をよく咀嚼できたかという
高崗(ガオ・ガン 1905-1954)と饒漱石(ラオ・シュース 1903-1975)の事件(1953-54)は謎が多い(写真は成城大学成城池)。中国共産党の歴史のなかで現在まで平反(名誉回復)がかなわないのはなぜか。事件は、一般には二人は反党同盟を結び、毛沢東、劉少奇、周恩来らに対抗しようとした、それが追及されたとされている。見直されないのは、彼らを追い落としたものとして、鄧小平や陳雲の名前も挙がり、二人の断罪には鄧小平がかかわっているので見直しはかなわないのだとい
福光 寛 以下に掲げた資料は毛沢東が海外留学しなかった問題について分析している。これをまず紹介したい。なお毛沢東は生涯中国を出なかったわけではなく、私の知識では少なくとも二度ロシアにそれも比較的長期間滞在している(手元の《汪東興日記》當代中國出版社2010年には、最初のソ連訪問の記録が収められている。「毛主席の最初のソ連訪問への随行」1949年12月16日から1950年3月4日。pp.112-163)ことを指摘してお
(劉小榮《1966-1977年的天津》中共黨史出版社·2011年 pp.93-117, esp.93-97, 115-117 写真は東京タワー 2019年11月8日朝) 大寨(ダーチャイ)は山西省昔陽県城東南虎頭山下の小さな農村である。抗日戦争当時、この一帯は中国共産党が指導する抗日根拠地であった。1945年8月、抗戦に勝利するとともに、この地区も生まれ変わった。中華人民共和国が成立したとき、この村には約800ムー(畝)の耕地、64戸の人家、190人余りの人口があっ
毛沢東「十大関係論(論十大關係)」(1956年4月25日)より《毛澤東文集第七卷》人民出版社1999年pp.23-49,esp.33-34 p.33 六 漢族と少数民族の関係 漢族と少数民族の関係について、我々の政策はある程度穏健妥当であり、またある程度少数民族の賛成を得ているものである。我々は大漢族主義反対を強調(着重)する。地方民族主義にも反対するが、そのことは一般的には重点ではない。 我が国の少数民族の人数は少ないが、占有している区画(地方)は大きい。人
(薄一波『若干重大決策与事件的回顧』中共党史出版社 1997修訂版の2008年の重版による。) P.98 7. 腐食を防ぐ方針のもと、三反運動を展開する。 抗米援朝、土地改革、反革命鎮圧の3つの運動に勝利したことを基礎に、党中央と毛主席は、1951年末に反汚職(貪污)、反浪費、反官僚主義の「三反」を開始した。これは我が党が政権を握って以後(執政後)、資産階級の党への腐食に意識的に抵抗克服し、共産党人の民を基本とする廉潔な政治を保持するための最初の成功した実践であった。
徐友漁「文化大革命是什么?」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.xxxvii-liを2回に分けて訳出する。今回はpp.xxxvii-xlvまで。 (解説) 文革をどう評価するか。日本社会から見ると異常な事件である文革。政治的でもある文革の評価を私自身も避けてきたが、いろいろ資料を読むほど、中国の最近の政治経済を考える上でやはり評価することを避けて通れないと考えるようになった。というのは、中国の現在の指導者は、若い時あるいは子供の時に、自身文革を経験した人たちだか
この1935年にソビエトに向かう「旅行」は、国民党軍の包囲を破り、その支配地域を抜けてゆくものであり、陳雲は中共の最高幹部の一人であり、国民党軍に逮捕されるリスクは高かった。その中で敵地に深く進入して、ソ連への渡航を実現している。これは実現するオペレーション能力が、共産党側にあったということ。具体的には秘密党員のネットワークが存在し、多くの共産党協力者が国民党の陣地の側にいたこと。結果として、国民党(蒋介石)の側は、陳雲のソビエト「旅行」を阻止できなかった。葉永烈は、陳雲の
1962年。この年、「7000人大会」があり大躍進政策の失敗が確認された。ただ大会は毛沢東の責任を十分追及しないまま終わった。そして毛沢東と劉少奇との間の矛盾対立は次第に拡大する。焦点は大飢饉を生み出した農業で、集団化政策の誤りを認めるかどうか。問題は明らかだったので、周囲の人々が次々に毛沢東説得を試みる。7月9日夜の陳雲による毛沢東への報告は、こうした動きの一つである。説得に失敗した陳雲は、治療を名目に蟄居を選択している。葉永烈『歴史的注脚』中華書局2014年6月pp.28
Cited from BBC Historic Figures 毛は中国の共産主義者の指導者で中華人民共和国の創建者。彼は大躍進と文化革命という、災害と言える政策に責任がある。 毛は1893年12月26日中国中央部湖南地方の韶山で、農民peasant一家のもとに生まれた。教師として訓練の後に、彼は北京に旅行し、(そこで)大学図書館で働いた。その間に彼はマルクス主義の文献を読み始めた。1921年に彼は中国共産党の創設メンバーの一人となり、湖南に支部を設立した。1923年
楊天石*(1936-)(中国社会科学院)蒋介石日記和蒋介石其人 2019/10/01 24小時大講堂(北京圖書館) 蒋介石は共産党の闘争土改に対して、孫中山の和平土改 双方贏改の方針を受け継いだが大陸では実行できなかった。このことが最終的に大陸を失う大きな原因になった。共産党の廃除私有制、階級闘争、暴力革命に対して、蒋介石は保護合理的私有制、階級合作、非暴力改革を唱えた。国際的には、中国の版図外の被抑圧民族の独立を支持した。大陸
黃暉 毛澤東遺物的故事 湖南人民出版社 2011より。まず驚かされるのは毛沢東のスロースタートである。西欧の事物に初めて触れたのがかなり遅かったこと。若いときに学校におらずに自学自習を続けたことも注目される。今回は1910年17歳までのところを訳出する。 ( 1893年12月26日 23歳の青年毛順生の第三子毛沢東が生まれた。湖南湘潭xiang1tan2韶山shao2shan1冲上chongshang屋場的23歲的毛順生。毛順生は算盤が得意であった。両手でそれぞれ算盤をはじ
胡耀邦の経歴でまず記憶されるのは、まだほとんど子供のときに中共の軍に従軍したことと、ところが従軍して間もなくAB団と疑われてあやうく粛清されそうになったことである。であるがここでは胡耀邦が毛沢東を文家市で初めて遠くに見た1927年までを書く。毛沢東が1927年、長沙に軍を進めないで文家市から南下したのは有名な話だ。軍事力の大きな差があることから賢明な判断ともいえるし、このときの幹部の指示とは違った判断をしたことは規律に反しているようにも見える。いずれにせよ、その決定的な現