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毛沢東が留学しなかった理由

                             福光 寛
 以下に掲げた資料は毛沢東が海外留学しなかった問題について分析している。これをまず紹介したい。なお毛沢東は生涯中国を出なかったわけではなく、私の知識では少なくとも二度ロシアにそれも比較的長期間滞在している(手元の《汪東興日記》當代中國出版社2010年には、最初のソ連訪問の記録が収められている。「毛主席の最初のソ連訪問への随行」1949年12月16日から1950年3月4日。pp.112-163)ことを指摘しておきたい。また青春期の留学は得難い経験と見聞の機会ではあるが、多くの人はいろいろな理由でその機会を得られないで人生を過ごしている。海外留学が人生にとって不可欠だといった言い方には何か傲慢なものを感じて、私自身反発を感じないではない。毛沢東の場合は、留学断念にどのような理由があったのだろうか。つぎのように指摘されている。

析青年毛沢東”出洋”留学未成之因 原在《毛泽东思想论坛》1992年第4期   在莫志斌《湖湘文化与近代中国》中华书局,2006,127-137

 毛沢東(1893-1976)は、まず留学をするのは社会を改造するためで、ちょっと偉くなろうととか(仲間内で少爷になろうとか)、かっこをつけようとか(镀金)役人となり出世しようとか(做官)ではない。中国からすでに数十万が海外に出ているこれはブーム(迷)といえるが、さらにそれに加わることは人材の浪費ではないか?国内で勉強することには、訳本の利用、世界文明の半分を占める東方文明中の中国文明を比較しながら学べることなど良い点があり、また中国についての実地調査そのうえで西洋に行き比較すべきである、などとしていたとのこと。要するに留学に慎重だった。
 また多くの新民学会会員が留学する状況で、誰か幹部が後方をまもるべきだということ。そして幹部として、革命運動を指導する実際的必要があったこと(1918年8月中旬毛沢東北京へ。1919年2月毛沢東北京を離れ長沙へ。3月末北京を経て上海、さらに長沙に戻る。5月五四運動。)も理由とされる。
 このほか、毛沢東の最初の奥さんである楊開慧(1901-1930)のお父さんの楊昌済(1871-1920 1918年に北京大学倫理学教授)の意見が影響したとのこと。毛沢東は湖南第一師範で楊昌済と出会った。留学期間も1903-1913年と長かった楊は、留学前に自国の言語文化を充分に習得し、そのうえで海外のものを批判的に学ぶ必要を説いたとされ、毛沢東はこうした楊昌済の考えに影響を受けた可能性があるとのこと。また、毛沢東は1920年3月に書いた書簡のなかで、海外に留学することで胡適にも意見を求めたとしている。

 この資料の分析は以上にとどまるが、最後にこの胡適と毛沢東との交流について、少し付言したい。二人の会話の時点は明確ではないが、仮に毛沢東の北京大学図書館員時代のことだとすると、毛沢東は図書館の下級職員で、胡適は著名な教授。大学という身分差が大きい社会で、果たしてそうした対等な会話がなりたったのか。ずっと疑問だったが、胡適が1951年1月、アメリカの新聞記者に対して行った受け答えの中で、毛沢東を知っていることを認めている箇所を最近発見した(《爲什麽戰爭在亞洲而不是在歐洲進行》載《胡適全集 胡適時論集7》中央研究院近代研究所2018年pp.3-15,esp.9)。これによると毛沢東は、胡適を含む教員たちによって、学問熱心な青年として認められていた。胡適も毛沢東を個人的に知っていたように書かれており、二人の間で会話の交流があっても不思議でないように思えた。問題の箇所は以下の通りである。

 p.9   問:毛沢東はどうですか?彼はあなたの学生ですか?
 答:彼は北京大学の「聴講生(旁聽生)」です。北京大学の入学試験は通常とても厳しく、彼は合格していませんが、どのクラスも聴講できました。
 当時(1918年と1919年)一般の人は北京大学を新学術生活の中心だと考えていました。ですから毛沢東のような一部の学生は、一部の新教授の感化を受けていましたし、遠路をいとわず学びに来たのです。彼はとても貧しく、そこで我々は彼に図書館の中で職を与えて、金銭上少しの援助を得られるようにしたのです。彼はとても熱心に学んでおり、当時はなお理想主義者でした。1921年に中国では12人が共産党を結成しましたが、その多くは北京大学出身者でした。

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