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朱鎔基 1928-

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朱鎔基(1928-)朱鎔基は清華大学出身。朱鎔基は政治家の道を歩むが、大変途中で苦労した。北京大学に進んだ厲以寧(1930-)についてもここで扱う。厲以寧は株式制度の導入で功績。
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2020年2月の記事一覧

朱鎔基の先祖と出生 1928-37

鄭義編著《朱鎔基台上台下》香港文化芸術出版社、2009年、pp.17-25(写真はJR水道橋駅)  湖南省城長沙を出て国道107号線を東に32キロ行くと長沙県安沙鎮和平村ー朱鎔基の故郷に達する。  ぬかるんだ(水泥)小径を進み、くねくねと(蜿蜒)山に分け入り、両脇に美しい青竹や花樹を見ながらさらに2-3キロ進むと棠坡(タンポウ)という地名に至る。朱氏一族の住居(祖屋)「恬園(ティエンユアン)」はかつてここにあった。「以前の大きな建物は、60年代にすべて壊してしまった。」と和

朱鎔基の学生時代(1)1935-43

 ここでは朱鎔基の小学校から初等中学までの記述を追う。日本軍が中国に本格的に軍事侵入してきた、困難な時期。環境は良くなかったはずだが。朱鎔基は懸命に勉強している。教育関係者や政府の努力で、国民政府の学校教育制度が、苦労して維持されていたことも読み取れる。そうした環境で朱鎔基は、何を考えながら一生懸命勉強していたのだろうか。鄭義編著《朱鎔基台上台下》香港文化芸術出版社2009年, 26-31    この皮膚は白く清浄で気質は穏やかな少年は人々に大きな印象を残している。彼は沈黙

朱鎔基の学生時代(2)1944-51

鄭義『朱鎔基台上台下』香港文化芸術出版社2009年、pp.31-56 から抜粋して翻訳,要約など(写真は東京復活大聖堂)。   1944年10月、初等中学を卒業した朱鎔基は、国立八中永綏(ヨンスイ)高中分校を受験して入学、湘西永綏で21ケ月の時を過ごし、1946年7月に離れた。長沙から一緒に行った学生は十数人とされる。永綏は現在の花垣県。湘西土家族苗族自治州西北角、高い山が連なり、地勢は険しい、朱鎔基はなぜ辺鄙な湘西で学ぼうとしたのか。これには当時の戦争の形勢が密接に相関し

朱鎔基 6年研鑽後放逐20年 1952-79

 鄭義編著『朱鎔基台上台下』香港文化芸術出版社2009年pp.56-75を適宜参照とりまとめ。(写真は東京ドーム外観)    既に述べたように朱鎔基はまず東北工業部に配属された。この時、東北局委員である経済学者馬洪と知り合っている。1952年12月東北工業部は解消され、国家計画委員会が組織される。当時、中央は地方幹部を中央に集める政策をとっている。東北局からはおよそ100人が北京に異動するが朱鎔基もその一人として国家計画委員会に異動し、1958年まで6年間、中国の工業化をこ

朱鎔基 国家経済委員会時代 1979-87

鄭義編著「朱鎔基台上台下」香港文化芸術出版社, 2009年、pp.75-78(写真は2020年2月22日 京都駅天井のトラス構造)  (1979年)国家経済委員会で朱鎔基は燃動局処長に任命されている。これは局長の下のポスト。ここで全体幹部大会で、処長クラスは皆保身のために一言も発しないところ、後ろの席の朱鎔基は早くも争うように立ちあがって(搶先站起來)、「一発ぶっ放したのである。」ある人は思い出して、朱鎔基という人はまことに「川や山は変わるとも、本来の性質は変わらない(江山易

朱鎔基 上海市長 1988/04-1991/04

鄭義編著「朱鎔基台上台下」香港文化芸術出版社2009年、82-126を一部翻訳、抜粋編集(写真は京都駅 2020年2月21日)   1988年に60歳近い朱鎔基が上海市長に就任した時、上海は発展が滞った局面にあり、同年のA型肝炎騒ぎ(甲肝風波)は彼の頭を大いに悩ませた。「上海A型肝炎はかからなければ死なないが、市長は疲れて死ぬこともありますよ。」と朱鎔基夫人勞安は言っている。  1987年末に中央は朱鎔基を上海に派遣し市委員会副書記に任命した。思いがけないことだったが、彼は