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鄧小平(1904-1997)

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#鄧小平

一国二制度 中国経済用語

《一個國家,兩種制度》一九八四年六月二十二日,二十三日。這是鄧小平同志分別會見香港工商界訪京團和香港知名人士鈡士元等的談話要點。《鄧小平文選 第三卷》人民出版社1993年pp.58-61 p.58 中国政府が香港問題を解決するため、採用した立場、方針、政策は確固としており不変(堅定不移的)である。何度も話したように、わが国政府が一九九七年香港の主権を回復行使したあと、香港の現在の社会は、経済制度は変わらず、法律の基本は変わらず、生活方式は変わらず、香港の自由港としての地位

鄧小平 白猫黒猫論 1962/07/07

這是鄧小平同志在接見出席中國共產主義青年團三届七中全會全體同志時講話的一部分。《鄧小平文選 第一卷 第二版》人民出版社1994年,pp.322-327, esp.322-324 いわゆる白猫黒猫論(黒猫白猫論 猫論ともいう)のもとになる文章がここにある。 p.322 この時期、我々は経済上若干の措置をとった。全体として情況は前の一時期に比べて少しよい。少し良いというのは、我々の生産が発展しているとか、我々の調整工作が成果を上げ始めたということではない。食べるもの、着るもの、

魏京生の逮捕 1979/03/29

 北京西単のバスの停車場のそば。200メートルほどの壁に、壁新聞が張られるようになったのは1978年春頃からだとされる。その中で魏京生が1978年12月5日に張り出した「五番目の現代化」と題した壁新聞は広く注目された。そこで「われわれを天下の主人とすること、我々を独裁統治者が野心を拡張する現代化の道具とせず、我々が人民生活を現代化できること、人民の民主、自由と幸福が、現代化を実現する唯一の目的であること、この第五の現代化がなければ、すべての現代化は新たなたわごとに過ぎない。」

1986年12月の学生運動について

 1986年末の学生運動についての正確な実態は公表されていない。しかし『中国共産党的九十年』中共党史出版2016年6月p.738は、つぎのようにその 影響として総書記の交代を伝える。「党の十二届六中全会決議(訳注 2016年9月28日)が強調した精神文明建設中のマルクス主義の指導地位を強め、資産階級自由化に反対するとの内容は、すぐに真剣な力で貫徹されなかった。1986年末、多くの(不少的)都市で学生運動(学潮)が発生し拡がった。1987年1月16日、中央政治局は拡大会議を開き

鄧小平 党の十二届六中全会での講話 1986年9月28日

『鄧小平文選第三巻』人民出版社1993年11月pp.181-182より全訳。中共十二届六中全会における「中共中央の社会主義精神文明指導方針に関する決議」(草案)討論時の講話。 p.182 資産階級自由化に反対することは、私が最も多く話していることで、かつ私が最も堅持していることである。なぜか?第一に、群衆の中、若い人の間に、一種の思想の流行(思潮)がある。自由化はまさに、この種の思想の流行である。第二に更にあすこに助けるもの(敲边鼓的)がいる。たとえば一部の香港の議論、台湾

鄧小平 資産階級自由化に旗幟鮮明に反対せよ(1986年12月30日)

『鄧小平文選第三巻』人民出版社1993年12月pp.194-197より全訳。  学生が騒いだこと(闹事 原注73:1986年12月中下旬、資産階級自由化の思潮が氾濫する背景のもと、合肥、北京などの一部の高等院校の少数の学生は各種の情緒理由から街でデモをした。ごく少数の観念に取りつかれた人々が共産党の指導に反対し、社会主義道路に反対する扇動を行い、ある地方では交通秩序が乱されたり、社会治安の規定に違反する情況が生じた。その後、関係方面と学校当局の教育と指導により、事件は次第に

胡耀邦「中国にとり未来の銀のスプーンは何か」1986年6月11日

认识中国未来动向的银匙(1986年6月11日)载《胡耀邦文选》人民出版社2015年11月pp.646-651 英国の王室国際問題研究所での講演記録。 p.646 今日は皆さまのこの国際的な名誉と権威を享有されている国際問題研究機構を訪れることができ、傑出した国際問題の専門家そして学者の皆様と会見できますことを大変光栄に又嬉しく存じます。  (中略)私は皆さまに、本世紀から次の世紀までの中国の基本国策を二つの言葉にまとめることが出来ると、お伝えしたく思います。一つは改革開放

Deng Xiaoping 鄧小平 1904-1997

鄧小平 Britannica Kids  1960年代の文化革命の間、中国共産党政府は前副首相の鄧小平に山高帽を被らせて首都を歩かせて、公衆の前で辱めた。しかし毛沢東の死(1976)後、彼は中国の最高paramount指導者になった。鄧小平は、共産主義の厳格なイデオロギーに抵抗して、自由企業の要素を導入したことで、安定と経済成長の回復に貢献した改革者として賞賛された。しかし、1989年半ばに、純粋に民主主義の抗議者たちに軍事的弾圧crackdownを命じたことで、彼の国際的

Hu Yaobang 胡耀邦 1915-1989

胡耀邦 Britannica Kids  中国の指導者鄧小平の援護者protegeである胡耀邦は1980年代に中国共産党の総書記を務めた。中国でかなり自由主義的な(more liberal)指導者のひとりである彼は、政治的経済的改革を刺激し、また学生指導者に寛容さ(leniency)を見せたことで、1987年に不名誉な形で(in disgrace)辞職させられた。1989年の彼の死は、幾つかの都市、とくに有名なのは北京の天安門広場において、改革を求める集団示威活動の引き金を

鄧小平の「留学」 1920-27(20.10-26.1在仏 1926末までモスクワ)

矢吹晋『鄧小平』講談社学術文庫2003年によっている。まず胡耀邦の家は、四川省公安県。重慶の北方100kほどの丘陵地帯の農村にあり(pp.17-18)、それなりの規模の地主だったとしている(pp.18-19)。先祖は明朝の高級武官だったと(pp.19-22)。お父さんは四川省の軍閥に仕えていたとする。その家に長男として生まれ(1904年8月)、私塾で学んだあと、地元の学校が整備されるにしたがって、初級小学、高級小学、中学と学んだ(p.25)。 15歳で中学を終えると、重

薛暮橋 鄧小平宛上申書1978/04/18 社会主義経済問題研究の出版1979/12

(筆者記載なし)《改革開放中的薛暮橋:冲破左傾“禁區” 》載《中國改革信息庫》 2014年7月17日 (閲覧2015年6月15日)  1976年四人組は粉砕され、「文革」の大災難(浩劫)は終わったと宣言された。しかし1977年と1978年の2年間、全国の誤った路線を正す(糾正)工作はこれまでになく何も決められなかった(徘徊)。薛暮橋は憂いのあまり(憂心忡忡)何度も熟慮したうえで、率先して高い目標、高速度に対して質疑を提出することを突破口に中央に上書して、得失を直言して(直陳

鄧小平 今世紀中の小康実現 1979/12/06

這是鄧小平同志會見日本首相大平正芳時談話的節錄。《鄧小平文選 第二卷 第二版》人民出版社1994年,pp.237-238  4つの現代化というこの目標は、毛主席、周総理が在世中に確定したものである。いわゆる四つの現代化、(そのためには)中国の貧しく欠乏し遅れた面貌を改めることが必要であり、人々(人民)の生活水準を少しずつ高めるだけでなく、中国をして、国際関係(国際事務)に置いて自身の情況に見合った地位を回復させるすべきであるし、人類に対し、少し多くの貢献をさせるべきである。

胡耀邦 改革への反発から辞職 1983-87

滿妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年,731-769  胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は1983年1月の全国思想工作会議において、全面改革を訴えた。つまり経済改革だけでなく、政治改革に踏み込もうとした。  しかし実際にすすめようとすると反発が生まれた。1983年2月、広東深圳を視察した時、幹部の選抜管理方法として、選挙方式に支持を表明した。沿海部の都市、汕頭、厦門などでは実施されていた。1984年陝西省で委員会の書記を選挙で選ぶ方式が決定(通過)すると、鄧

鄧小平「道は正しく、政策は変えようがない」1983/06/18

 這是鄧小平同志會見參加一九八三年北京科學技術政策討論會的外籍專家時談話的一部分。《鄧小平文選 第三卷》人民出版社1993年,p.29  我々が進めている現代化は、中国式の現代化である。我々が建設する社会主義は、中国の特徴(特色)のある社会主義である。我々の主要は、自己の実際情況と自己にもとづいており、自力更生を主とする。  われわれの現在の道は正しく、人々(人民)は喜んでおり、我々もまた自信がある(有信心)。変えるのであれば、さらに良く変えるしかない。対外開放政策はさらに