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世界遺産はタイムマシン【世界遺産と僕#1】

今日は2022年7月24日。
世界陸上オレゴン大会の最終日。
新型コロナウィルスのオミクロン株BA.5の新規感染者数は東京都で6日間連続で2万人、全国では今日だけで12万人。非常に多い。

別にこの文章で陸上の話をするつもりも、コロナ関連の話をするつもりもない。後から振り返った時に今日がどういう日だったかが分かりやすいように書いた。

世界遺産と僕、というくくりで文章を書くことにした。
毎回なにか個別の世界遺産について、自分のエピソードを書くとかではなく(そんなエピソードがある遺産がそもそもあんまりない)、なんとなく、こじつけでも、ふんわりとでも世界遺産にこすって個人的な話を書き連ねていこうか、という意味でのタイトル付けである。

はじめは何かこの世界遺産、というよりかは、世界遺産と言うもの自体と、最近個人的に感じたことをこじつけて書く。

この前、自分の部屋の片隅に打ち捨てられてる古いHDDがふと気になり、PCにつないで中のデータを見直していると、2010年前後から2016年くらいまでの写真データが入ってるフォルダがあって、しばらく見入ってしまった。

その中に、2015年4月に撮ったプリクラがあった。
康雄さん(四星球)の誕生日で、確か新宿で撮ったもの。

懐かしすぎて康雄さんにその画像をLINEで送ったら、その後プリクラ画像載せてツイートしていた。

そんな7年前のプリクラ発掘があった翌日、
自分のやってたバンドの解散ライブの動画について、初めて観た人が突然リアクションをくれた。
当時から付き合いのあるあらやという女の子が音楽活動を再始動するとのことで、昔ライブハウスで関わって親交のあったバンドの曲をカバーしたいらしく、僕らのバンドの曲もやりたいとのことで話題にしてくれたらしい。

その解散ライブは2008年。14年前。
前日のプリクラが7年前、妙な7の倍数での倍々ゲーム。

プリクラにしろ、ライブの動画にしろ、自分の生きてきた中で残してきたものが、2022年現在の自分に強い感情を呼び起こさせる感覚だった。

一瞬、時間を飛び越える感覚。

その7の倍々の流れで、次は28年前の何かがが飛んでくるのかと思ったが、何か周りから自分の28年前について触れられるということはなかった。

ここでようやく世界遺産の話をすると、
この前5月に、動画撮影で巡った世界遺産、
登録上の名称は『古都 京都の文化財』
その登録は28年前、1994年だった。

(いいなぁこの、無理矢理だけど無理矢理過ぎない繋げ方。)

あと、個人的なことでついでに無理矢理言うと、1994年は、僕が人生で一番多く遊んだRPG、『MOTHER2』が発売になった年。
当時9歳だったことを考えると、その突き刺さり具合はほんとにもうえぐかったと思う。

閑話休題。

僕の、個人的な記録、記憶であるプリクラやライブの動画、
それと京都の世界遺産を同列に語るのはすごくおこがましいけれど、

どちらも、時間を飛び越えている。

しかし、いま書きながら気づいたけど、案外、これは世界遺産の本質に迫る話である。

写真でも動画でも、人からもらった手紙とかでもいいけど、そういうのは僕の個人的な思い入れや記憶として残っているもの、残してあるものや、捨てられないものである。
それは、僕個人にとって「価値がある」もの。
逆に言えば、他の人にとっては、僕が感じるほどの価値はないものである。
だから、あくまで僕個人の手の届く範囲内で、残しておく、大事にとっておくかどうか、僕の裁量で行われるもの。
それが、僕個人に向けて、折に触れて、時間を飛び越えて感動をもたらす。言わば僕専用のタイムマシン。

世界遺産というのは、その「価値がある」というのが、個人や一部の国や地域、属性の人にとってではなく「人類みんなにとって価値がある」と認められたもの。
みんなにとって、時間を越えて保存すべきもの、この先何百年か経った先の人類にも感動をもたらす、みんなにとってのタイムマシン。
(タイムカプセル、という表現の方がいいかも知れないとも思うけど、”カプセル”の掘りだす感じが違和感なのと、時間を飛び越える感じを強調したいので”マシン”にしている)
この考え方を端的に示した言葉が、世界遺産を扱う中で語られる『顕著な普遍的価値』というもの。

ここで勘違いをしてはいけないのは、
僕の写真や動画のような個人的な思い入れのあるもの、と、世界遺産、その間は全く切り離して捉えるものではないということ。

結局のところ、個人的な「大事にしたい」という思い入れの延長線上に、「これは全人類にとって大事だ」という思いがあるのだと思う。

築地市場を豊洲に移転する際に「築地市場を世界遺産に」みたいな話が上がったことがあったが、あれが、個人的な思い入れの延長線上に「世界遺産に登録してほしい」という考えがあることをわかりやすく示している。
(僕は築地市場は世界遺産になるモンじゃあないとは思うけど)

僕はモノが捨てられない質で、大掃除、断捨離、などやるにつけ、「いやこれにはこういう思い入れが……」などと考えてしまって「残す」選択をしがちである。

なので、僕の精神性は、世界遺産と親和性があるように思う。

僕の真逆をいくのがいわゆるミニマリストと呼ばれる人たちだと思うけど、
人類の歴史にミニマリズムを当てはめると、歴史的建築はみんな団地かマンションにでもなってしまうところだろう。


「タイムマシン」という考え方は、世界遺産を観光で訪れるときにも役立つ。
要は、時間の重みに思いを馳せるということになるが、
「単に、なんか、世界遺産だし、見に来た」みたいな心持ちで観光するのと、
「この遺産ができた当時、どんな状況だったか、どんな時間の経過を経てこの遺産はいま自分の目の前にあるのか」
「当時の人たちはこの建物、この存在にどう関わって価値を感じていたのか」みたいなことを考えながら巡るのとでは、楽しさが天と地ほど違う。

京都でいうと、思いついたのは、二条城とか。
そもそも昔の人は、徳川家、将軍家のものである二条城の敷地内を、いまのように自由には歩けない。
余程身分の高い人でも、(そもそもあの城自体有用に使われた時期が短いというのもあるけど)自由に散策などは難しい。
そこを今、入場料を払えば自由に見て回れるという、士農工商えたひにんみたいな時代からするとありえないことをやってる、と自覚するだけでも、見
え方はずいぶん違ってくる。

そういう、感情を動かしながら楽しむ、というのが、世界遺産、ひいては歴史的なものを楽しむ際のコツだと思う。

この文章自体もそうだけど、これからも、生きている限りは個人的なタイムマシンを作り続けていくだろう。
誰か他の人にとっても、時間を経て感情を揺さぶる、そういうモノを作っていければいいなぁと思う。

京都の旅で撮った動画に関しては、公開できるよう鋭意制作中。

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