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自分の陥りがちなパターンを破る

自分には超えなければならないパターンというものがある。それは、完璧でなければ人に見せるべきではないという思い込みだ。これがとかく自身を生きづらくさせている。実は12月頭に屋久島に行ったのだが、そのnoteも途中で書くのを止めてしまっている。(写真は屋久島、めちゃいいところ)

「完璧」の何が悪さをするのか

まず、完璧を意識するため、成果物としてものを出す頻度は圧倒的に少ない。そして、何より問題だなと思っているのが、他人の出したものに対して、「こんなレベルで出したの?」と狭量になってしまうところだ。自身に対しても相手に対しても、その現状をそのまま受け入れることが重要だなと思いつつ、それをできていない自分にフラストレーションが溜まる。

その歪んだ完璧主義を乗り越えるためのツールとしてnoteを選んでみたが、案の定なかなか筆を執る気にならない。気乗りがしてこない。ちょっと書いてみても下書きのままにしてしまう。いいかげん出さないとと一念発起して記事の形にしてみるも、その後が続かない。

そこで思い立ったのがジャーナリングの書き起こしである。実は、私、高野は11月27日から毎朝起きたらまず日記をつけている。そのときに何を感じているのか、考えているのかを書き出して頭の中を整理している。これが存外気持ちがよく、苦もなく続けられているのだ。どんな内容か試しに今日の分を書き起こす。

12月30日 ジャーナリング

つい仕事のことを考えてしまっている、楽しい。
楽しい裏に何が隠れている?
なにか犠牲にしていないか? プライベート的な?
そう考えようとするクセがすぐ出てきてしまう。
でも何事にも意味はあるという観点からはとても正しいとも思われる。
意味の探求としての意義。
自由の罪、不条理
人生の意味を見出すのはとても必要なこと。
これをもって生きていると言えよう。

朝から何書いてるんだと、みんな思うだろうし、特に歪んだ完璧主義者たる自分は特にそう思っている。これまでこんなこと書いて公開するなんて考えられないことだった。あえて公開することで「完璧」を破壊する練習になるのではと思った次第だ。

あんまりnoteでの公開を意識しすぎると毎朝のジャーナリングの意味が損なわれてしまうだろうから、深く意図せず自然体で続けようと思う。

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