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小学校時代の忘れられないクラスメート

父は転勤族だった。自分が生まれてから高校までで引っ越しを要する転勤を5回。それに伴い中学入学までに4回引っ越しした。小学校入学と同時に初めて関西から関東に、茨城県に引っ越しした。昭和40年代半ばのことである。


6歳の子供にとって関西から関東に移るのは一種のカルチャーショックだったのだろう。ズーズー弁を話すクラスメートにびっくりした記憶がある。そこで小学校4年生の半ばまで、つまり3年半を暮らした。


私立の学校など近辺にない環境である。もちろん通っている小学校も地元の町立の学校だった。そこではクラスメートを中心に仲の良い友達もできた。

当時は今よりずっと父親がサラリーマンでなく自営業をしている家庭が多かった気がする。クラスメートの家に遊びに行くと野菜屋さんであったりお菓子屋さんであったり両親が共に働く家庭が多かった。公園や空き地で即席の野球をしたり我が家に友達を連れて来たりした。住んでいた地域では鍵っ子が多くて自分の家庭の様に母親が専業主婦はむしろ珍しかったのかも知れない。


そんなクラスの中で一人忘れられないクラスメートがいた。いつも同じジャケットを着ていた。ヨレヨレな服だった。授業中発言すると必ずどもった。「ぼ、ぼ、僕は、、、」といった感じだった。ある時教室で視力検査と聴力検査があった。そのクラスメートは聴力検査で引っかかった。お医者さんに耳の中を調べられている。どうしたのかと見守っていると耳かきみたいなもので詰まっている耳垢を取り出してこれでは聞こえない訳だと言われていた。

家庭が貧しいのは明らかだった。だからという訳ではないだろうが教室であまり話さず普段は目立たない存在であった。かといっていじめられる訳でもなかったと思う。

ある時そのクラスメートと放課後二人きりになった。そのクラスメートの家に近いという公園で二人で遊んでいた。普段話す機会もなく一緒に遊ぼうと誘い合う間柄でもなかったのでどうしてそういう状況になったのかは今では思い出せない。ただ、公園のブランコに乗って二人で話しをした。その子の家庭は母子家庭だった。しかも母親は目が見えないという。期末の通信簿も成績を偽って母親に告げるのだと言っていた。母親がキッチリ細かくチェックする我が家では考えられないことだった。

そのクラスメートとの間での記憶で忘れられないのは彼がずっと遊びたがっていたことである。夕方段々陽が落ちてきた。5時のサイレンが鳴った。町役場からのサイレンだった。家に帰らないと叱られると言ったところあれは5時のサイレンじゃないからまだ遊べるよとクラスメートは言った。町の外れで普段遊ぶ場所ではなかったのでそうかなと素直に信じて同意した。少し遊んではいたがやはり気になって再び帰ると言ってさよならまた明日ねと言って今度は本当に家路についた。家に着く直前で父の運転する車に出会った。当時病弱だった自分は1日おきに隣町の病院まで父の定時後車で通院していた。ギリギリその約束の時間に間に合った。父に叱られずに済んだ。ホッとした記憶がある。同時にクラスメートは嘘をついたんだなと気づいた。あのサイレンはやはり町役場のサイレンだった。何故嘘をついたのだろう。まだそんな時間じゃないよ、もっと遊ぼうと言った彼の言葉が蘇った。

おそらく普段クラスメートと遊ぶ機会は彼にとってそれほどなかったのだろう。あの日以外に放課後一緒に遊んだ記憶がない。二人きりとはいえ遊ぶ相手がいたのが嬉しかったのではないだろうか。病弱だった自分は幼少の頃から何か他人を差別したりすることはなかった気がする。いじめられたりしたこともある。健康な人と比べて出来ないことが多くて悔しい思いをしたせいか例え貧しい家庭の子であろうとふ〜んそうなんだという感じで受け止めていた。そのとらえ方がそのクラスメートに伝わっていたのかも知れない。僅かな時間一緒に過ごしただけの間柄ではあったが自分に親しみを感じてくれてもっと遊びたいがために嘘まで言ったことにある種の愛おしさを感じる。今はどうしているのだろう。ボソボソとゆっくりおっとり喋るあの雰囲気がそのままであって欲しい。そう願っている。

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