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情報操作ではなく印象操作

最近のテレビの報道を見ていると一本調子で面白くない、というか違和感を覚える。

例の新型コロナウイルスの「今日の新たな感染者数」という報道だ。

今年初めの感染が拡がり始める頃なら分かるのだが、この件の報道がニュースの冒頭に定位置を占める様になって3ヶ月は経つ。

グラフの取り方に違和感を覚えるのだ。横軸が日にち、月日で、縦軸はその日の新たな感染者数で地域毎にデータを示して棒グラフ化している。

感染が拡がる初期段階ならこれでも良いのだが3ヶ月も経つと累計感染者数が1万人を越えている。4月の新たな感染者数と7月の新たな感染者数はデータ上全然違う。

例えば、累計感染者数が100人から200人になるのと10,000人から10,100人になるのとでは同じ「新たな感染者数」は100人なのだがそのデータの意味するところは全く異なるのだ。

そもそも裾野が拡がってしまった感染者数が初期の頃と比較して同じ100人を同じ様に扱うこと自体が不自然だ。統計上もデータの意味するところは全く異なる。それを同じ様に扱っているのが今の大抵の放送局の報道だ。

日々の報道として論じるべきデータは新たな感染者数だけではなく現在の入院者数や重症患者数のはず。これらが直接の社会的影響を及ぼす数字でありデータだ。各地の病院の空いているベッド数などに直接リンクしているからだ。

一般的に、グラフのプロットの仕方というのはその見た目の印象をいかようにでも変えることが出来る。一つの同じデータでもそれをどの様に料理しメニュー化するのか。同じ具材でも出来たものは見た目も味も何もかも違ってくる。

加工されていない生のデータをどの様に扱うか。どの様に整理するか。縦軸を何に設定するか。横軸を何に設定するか。各軸の数値の最小値と最大値の取り方、ゼロ点の取り方。(エクセルなどのソフトである程度自動でグラフをまとめるのではなく)一度でも実際にグラフを手書きで試行錯誤してプロット(数値の点を付ける)してみたことがあればグラフの出来栄えが同じデータでも三者三様でこれが同じデータを元にしているのか??と思うほど違ったものが出来る可能性があることに気付く。見た目の印象が全く異なってくる。

データのまとめ方とはそれほど結果に影響を及ぼす。極論すれば、結論ありきで同じデータから全く違う理論へと展開することも可能である。

今報道されている現状は逆説的な言い方になるが、おそらく間違ったデータを使っていないのが始末に悪い。情報操作している訳ではないからだ。これは情報操作ではなく印象操作である。

話は全く変わるが、BS朝日放送で金曜日の夜に「町山智浩のアメリカの今を知るTV In Association With CNN」という番組がある。今現在米で起きている時事や話題を取り上げている。

その番組でビックリしたことがある。例の感染者数のデータの報道の仕方だった。米は一つの国ではあるが各州毎に独立性が強い。そのため国全体ではなくある特定の州のデータが表になって報道されていた。それがその州内の地域別でもなく年齢別でもなく人種別に分けて感染者数を表にしていたのだ。説明によると人種毎にその従事する職業に特徴があるのでその様なデータの整理の手法が状況を上手く説明出来るのだという。つまり、差別され易い黒人やヒスパニックの人々の職業は自宅待機などでは出来ない仕事や成り立たない仕事 ― 例えば、ゴミ収集やビル清掃など ― が多いから感染者数が必然的に増えるのだと言う。

なるほど、それぞれの国によってその国の事情がテータの表示の仕方や整理の仕方に影響する。それに合わせて報道の内容も異なり議論する内容にも社会的問題へと発展する内容にも影響する。いわば自然な成り行きと言えるのだろう。

いずれにしても今現在の一本調子の報道というのはマスコミの思考停止の様に思えて仕方がない。もうちょっと物事を多角的に見る、俯瞰的に観ることが求められている。

一方、報道の如何に関わらず視聴者としては情報をただ無批判に受け入れるのではなく自ら考え調べてみる姿勢が求められる。そうしていろんな意見が出てきて良い。お互いの意見を尊重出来ればなお良い。

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