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視覚と聴覚 どちらを使いこなしている?

子供の頃から絵心が無い。小学校の頃は図画工作が苦手。中学・高校では美術が苦手。苦手意識はずっと続いている。最近のテレビドラマでは見かけなくなったが昔の刑事物のドラマでは犯人の目撃者を聴取してモンタージュ写真を作るシーンがあった。犯人の顔を縦切りにして頭、おでこ、目、鼻、口、あごと各部位をスライド式に変えて目撃者の記憶をたどり犯人の写真を作り上げていく。いつもあんなことが良く出来るものだと思っていた。自分なら絶対出来ない。身近な人、例えば家族の顔を思い浮かべても捜査員に顔の特徴を説明してもまともなモンタージュ写真は作れっこないと思う。まして事件現場で一度きり見た犯人の顔を覚えていてその特徴を他人に説明することなど想像も出来ない。もちろん写真を見てこの人は僕の父です、ぐらいの判断は出来るのだが。(当たり前)これは絵心の問題だけでは無いだろう。きちんと記憶に留める意識があるか無いか、日頃から目から得る情報をしっかり記憶する訓練というか習慣があるか無いか、という問題なのかも知れない。実際職場の同僚が髪を切っても大抵気づかない。眼鏡を変えても気づかない。視覚的な変化に気づかないのはそれだけ留意していない、意識していないということなのだろう。これに対し耳から得る情報については結構自信がある。人の言った言葉は良く覚えていたりする。その時の声のトーンとかどんな感情が込められていたのかまで記憶していることもある。美術に対して音楽の分野はさほど苦手意識はないのもその様な記憶力に対する自信が背景にあるのだろう。
人は五感を使って記憶するとしてどの感覚を使うのかはそれぞれ得手不得手がある気がする。自分の場合はやはり聴覚を使うのが得意とまでは言わないが視覚よりはベターだ。ただこれはその人の能力の問題かというと疑わしい。むしろ日頃五感をどの様に意識して使っているかが重要だと感じる。視覚で覚えるのに苦手意識がある自分はむしろ覚え方を変えてどう視覚を使うのか、視覚から得られる情報をもっと脳に取り入れるにはどうすれば良いのかを試行錯誤してみれば使ってなかった能力が目覚めて今までとは違う世界が見えてくる気がしてならない。
そうはいっても(元に戻るが)やはり得手不得手はそう簡単には変わらないのも厳然たる事実だ。尊敬する理論物理学者のリチャード・ファインマン教授は何かの本で人の記憶の仕方は聴覚を使うか視覚を使うかに分かれるといった趣旨のことを書いていたと記憶している。どちらの感覚を使っているかを調べるには数を数えると分かるらしい。脳の中で言葉で言いながら数を数える人は聴覚を使っており数えている最中に話しかけられても会話が出来ない。何故なら数を数えているから他人と話が出来ないからだ。頭の中で数字の映像を追って数えている人は視覚を使って数えている。そんな人は車の運転が出来ない。あるいは出来ても危ない。道を見ているのではなく数字を見ているからだ。このファインマン説が正しいとすれば人は視覚と聴覚の使い方に違いがあるということになる。自分の場合数え方は明らかに聴覚を使っている。(頭の中で声に出して数を数えている。)そしてその聴覚を使って記憶する方が視覚を使うより比較的得意だ。この数え方は努力して変えれそうに無い。だとすればやはり使い方の違いでどちらが得意なのかははっきり分かれるのかも知れない。それが生まれつきなのかそうで無いのかは分からないが。
視覚と聴覚。おそるべし。もっともっと掘り下げるともっと面白そう。


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