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池江璃花子選手に思う

長い間疑問に思っていたことがある。

病気に苦しむ、立ち向かう辛さや努力はスポーツ選手がそのパーフォーマンスを高める努力や闘いと何が違うのだろうか。そんなことを長い間なんとなく考えていた。

そんな中水泳の池江璃花子選手が数々の日本新記録を打ち立てた後白血病となりその状況をTwitterなり彼女のHPで都度リアルタイムで世の中に自ら発信する様を見てきた。

彼女の水泳選手として一流のスポーツ選手としての実績は本来持っている才能はもちろんあるだろうが並大抵ではない努力の賜物であることは疑いの余地がない。一方、難病に立ち向かうその姿そのものもそうだがその姿を自ら世間の目にさらす、しかもリアルタイムでさらす勇気も正直驚嘆して見ていた。自分には到底出来ない。出来たとしても少し間を置いてちょっと良い結果が出てからまあ他人に見られて恥ずかしくない程度のものだったら公表してもいいかなと思えたら少しずつ世に問うてみようぐらいがせいぜいのところだ。

その彼女の闘病生活を少し垣間見てもやはり水泳選手としてパーフォーマンスを高めた努力と闘病生活を日々送る苦しさや辛さは全く違う質のものではないかと改めて思う。

そんな中ビジネスイングリッシュのマット竹内さんのポッドキャストの7月9日の最後の「講話」(とファンの間で呼ばれている)で植物学者稲垣栄洋氏の「植物はなぜ動かないのか」という本の紹介で植物のじっと耐え抜く力・強さについて話されていた。

はたと気付いた。そうだ。闘病生活に求められるものはこの植物の耐え抜く力や強さに似ているのではないか。病気とは自ら求めたものではない。(無意識の中で自ら招いたものであるという考えもあるにはあるが)病気になればそれから逃れることは出来ない。植物もいったんその場に種が落ちそこで育てばその場で朽ち果てるまで居続けることになる。消極的とまでは言わないが他動的受動的な立場が植物の置かれた立場と病気に立ち向かう人に何か共通したものがある様に感じる。

一方、アスリートなどのスポーツ選手に求められる努力やトレーニングや食事を気遣う自律性や抑制する精神はある種能動的なものに思える。病気に晒される人とは違い逃げ場があるからだ。もちろんいったんその世界に入れば自分の我が儘で選手を引退したりする自由がある訳ではないのだが続けるか諦めるかの二択という意味においてその瞬間瞬間で続けているのは本人の意思以外の何ものでもない。社会的立場というものがあるだろうがそれも建前のことで続けるのか止めるのかは本人次第である。病人が闘病生活を諦めるという訳にはいかないのとはやはり質が違う。

そう考えると闘病に求められるもの、必要なものとスポーツ選手などが打ち立てる実績や実力に通じる努力やなにがしかは本質的に異なるものだと分かる。語弊を恐れずに無理矢理この2つを分けるとすれば前者は受動的で後者は能動的なものとなるのだろうか。

まだまだ納得出来ない。何か取りこぼしがある気がするが両者のもつ性格の違い、求められるものの違いを考察してみた。

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