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pɛ(ぺ)〜ファンティ語の不思議〜

 ガーナに来てからもうすぐ半年になる。あまり上手くなってはいないが、現地語も少しずつ勉強している。私が勉強しているのは、ガーナ西部のCentral regionおよびWestern regionで主に話されている言語、ファンティ語だ。
 ”ɛ”, “ɔ”といった馴染みのない音素や、アルファベットで表現されるので発音は容易と思いきや、文字表記には存在しない音を発音する場合があるなど、苦労する要素はあるが、文法は英語と似ているし、難しい単語はほとんどヨーロッパの言語からの借用語なので、習得の難易度はそれほど高くないと推測している。それに、現地の人たちは日本人よりはるかに英語が通じるので生活でほとんど困らない。

 ファンティ語を勉強していて衝撃を受けたのは、”like”, ”want”にそれぞれ1対1で対応するものがなく。”like”, “want”の両者が1つの動詞”pɛ”(ぺ)**で表されるところだ。

 なぜこれが驚くべきことなのか、
 ・私はケーキが好きである。
 ・私はケーキが欲しい。
 上記の2つの文章をファンティ語にすると、上記のすべてが”Me pɛ cake”となってしまう。つまり、「好き」であることと「欲しい」ことは、この言語では区別しないのだ。
 しかも、”pɛ”には「必要である」という意味もある。
 ある事象に名前を付けることはつまり、そのある事象を他のものと区別することだ。英語には「湯」に相当する単語が存在しないので、湯を英訳すると”hot water”になる。英語しか知らない人にとっては、熱くても冷たくても”water”であるけれど、日本語話者は冷たければ「水」、熱ければ「湯」と温度によって異なる概念を用いるわけである。
 「好き」であることと「欲しい」ことの全てに”pɛ”をあてはめるということは、おそらくファンティ語話者にとってそれらは区別する必要のないことであったのだろうと推測できる。
 そう考えるとますます不思議に思えてくる。我々日本人には、「好きだけれども欲しくないもの」を想像することができる。例えば日本語では、「大画面のテレビは好きだけれども、今の部屋には大きすぎるので欲しくない」とか「Windowsのパソコンは好きじゃないけど事務仕事に便利なので欲しい」といった文章を理解することはできる。しかし、おそらくファンティ語しか知らない人にとって、それらを想像することは困難なはずだ。なぜならば彼らの言語では「好きだけれど欲しくない」あるいは「好きじゃないけれど欲しい」という言葉を表現できないからだ。言葉で表現できないことを一体どうやって想像できるだろうか?
 なぜそんなことが起こるのか、推測でしかないがこう考えている。ファンティ語話者はヨーロッパ人が今日のガーナに来るまでかなり素朴な生活を送っていたのだろう。17世紀のゴールドコースト(ガーナが建国されるまでのヨーロッパ人によるガーナの呼び方)で最も盛えていたべゴー”Begho”の人口が1万人ほどであったそうだ。ポルトガル人がこの地に来る前は、好きでも欲しくない大画面テレビや、好きじゃないけれど欲しいパソコンもファンティの人々にはきっと無縁だったのだろう。つまり、「好きである」ことと「欲しい」ことを区別する必要性が無い生活を送っていたから、それらを区別しなかったのだろうと推測する。念のため言っておくと、現在のガーナの人たちには英語が浸透しているから、”like”, “want”の区別は当然できる。
 しかし、農業生産の拡大によって余剰が蓄積され、中央集権的な国家ができるという歴史の流れを経験するまでは、日本でも他のどこの地域でも狩猟採集を中心とした素朴な生活が送られていて、そのような生活の中では、「好き」も「欲しい」という心の動きが混然としていて区別などする必要がなかったのではないかと思う。
 そもそも例で用いた「好きだけれども欲しくない」とか「好きじゃないけれど欲しい」といった文章は日常でそれほど多用されるものではない。
 名付けることは、ある事象を他のものと区別することであり、それゆえに言語は思考を規定する。「好き」と「欲しい」が同時に対立して用いられる状況が存在しないと、それらを区別する必要性がない。社会の複雑化が進展しないとそれらを区別する状況は生まれない。”pɛ”は実に想像力を掻き立てる言葉だった。

 * 動詞”pɛ”には“need”の意味も含まれるが、”hia”という動詞も”need”の意味を持つ。しかし”hia”の対象は物だけであり、「アクラに行く必要がある」というような文章を作るときには”pɛ”が用いられる。
 * 動詞”pɛ”は同じアカン語族のトゥイ語にも見られる言葉で、トゥイ語にも“like”と“want”と1対1の関係になる言葉は無いそうだ。

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