見出し画像

人はなぜ学ぶのか?

 明けましておめでとうございます。昨年(昨日)宣言した通り、最低月一回のペース(出来ればそれ以上)自分の文章力と向き合いながら投稿して行きます。
 初回の今回は一年の始まりでもありますので、改めて「なぜ学ぶのか?」といった本質的な問いに対する自分が今持っている意見についてまとめていきます。
 あくまでも個人の見解や感想をまとめたものですので、視点や価値観の違いがある場合もご容赦してください。
 少しでも興味があればリアクションやコメントをいただけると自分にも良いフィードバックになりますので、なんでもお待ちしております!

福沢諭吉が学問のすゝめで言いたいこと

 年末の仕事納めの日、久しぶりに本屋へ立ち寄ったところ、無意識に面白そうな本が目に飛び込みました。それが「お金に困らない人が学んでいること」(著者:岡崎かつひこ)です。

 この本を開いた最初の一文が福沢諭吉の言葉「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」でした。この一文は福沢諭吉の代名詞的な明言であり、広く知られている文章です。これだけを読むと「人は皆平等だ」と言うことを諭吉は言っていたと勘違いしてしまいます。しかしこの本を少し読み進めると、福沢諭吉が伝えたいことはその先の文章にあり、「されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりて出来るなり」とのことです。つまりここまでを繋げると以下のように訳せるのです。
 「人の差は生まれた場所や人種によっては生まれることはなく平等であるけれど、その後の人としての賢さ(や愚かさ)の差は学んでいるか否かによって生まれてくる」
 と言うことです。つまり諭吉は「人は平等」と言うことが言いたいのではなく「人の差を分けるのは学ぶか否かだ」と言いたいのです。
 以下に「学問のすゝめ」の原文を引用します。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、 万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との 働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるも あり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その 次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中に むずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と 名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。

福沢諭吉. 学問のすすめ(p.5). 青空文庫. Kindle 版

 このことから今回は学びの目的について、自分の意見を綴っていきます。学びが手段ではなく目的として継続するために、今一度考えていきたいと思います。

自分なりの問に対する意見(現在の答え)

 先に自分の意見(現在持っている答え)について、簡単に列挙します。

  • 少し先の未来の意思決定に必要だから

  • 他責思考から自責思考、その先のシステム思考へ、思考を深化させるため

  • いつまでも若い(しなやかな)精神を保つため

 それでは一つ一つ、列挙した内容について説明していきます。

大久保利通と西郷隆盛

 学問のすゝめの文章を見て、まず初めに思い浮かんだのはこの二人でした。福沢諭吉は幕末から明治期を生き、学問のすゝめも明治時代に人々に読まれた事を考えたときに、明治維新を進めた人物たち(坂本龍馬や吉田松陰など)とともに大久保利通と西郷隆盛の二人の関係性が特に印象に残っています。
 西郷隆盛は現在の警察制度や郵便制度に代表されるような、明治維新後の日本の内政に主に貢献しました。それに対して大久保利通「富国強兵」政策に代表される、主に外交政策を強く推しだした方でした。このおかげで明治維新後の日本が欧米列強に肩を並べる力を持てるようになります。しかしながら富国強兵政策は民衆からすると、長時間労働にもかかわらず直接生活が豊かになる訳ではなく、必ずしも受け入れられる政策ではありませんでした。事実として大久保利通は民衆から暗殺される最期を遂げています。
 今回深掘りしたいのは、西郷隆盛ではなく大久保利通についてです。ではなぜ、大久保は民衆から嫌われるような政策を実行し続けたのか?
 理由の一つは当時の世界情勢です。

  • 欧米が植民地政策をどんどんと推し進める時期だった

  • 江戸幕府に圧力を掛けたアメリカは日本の植民地化を狙っていた

  • 明治維新の際に新旧政府軍の援助を行ったイギリス・フランスもどちらもその後の日本の植民地化を企んでいた

 また、西郷が内政を手厚く実施した期間は、大久保が欧米視察を実施した期間です。
 理由の二つ目は大久保が欧米視察で経験したことです。

  • 日本と欧米列強の圧倒的な文明の差を目の当たりにした

  • 外交交渉の中で日本が欧米列強と同等に扱われないことを痛感した

  • 日本が国力を欧米列強並みにしないと植民地化されてしまう不安を抱いた

  • 植民地化を回避するためには、国力を欧米列強並みにしなければならず、そのためには富国強兵しなければならないと考えた

 植民地化されることは即ち、江戸時代に逆戻りもしくはそれ以上に民衆の生活に圧力がかかる可能性があります。
 植民地化回避の条件は日本で博覧会を開催して、欧米列強の使者達に日本の文明力を知らしめることが必要条件でした。
 こうして、大久保は帰国後に富国強兵政策を推し進めました。

 長くなりましたので、西郷と大久後の視点の違いをまとめます。

西郷の視点

  • 今(当時)の日本をより良くしたい

  • 直接、民衆の生活に繋がる政策を実行したい

  • ~したい(will)、~すれば出来る(can)ことを整備した

大久保の視点

  • 今後(少し先の未来)も民衆の生活を守らなければならない(つまり植民地化を回避しなければならない)

  • そのために富国強兵で欧米並みの国力をつけなければならない

  • 今よりも少し未来の日本に危機感を抱いた

  • ~しなければならない(must)の視点で政策実行した

 このことは西郷と大久保どちらが良くてどちらが悪いと言うことではありません。あくまで両者の視点(見ていること・知っていること)の違いです。
 
しかしながら、民衆・西郷・大久保の3者の中で欧米列強の国力と植民地化の脅威を知っているのはこの時点では大久保だけなのです。
 
これらの危機感を持っているのは大久保や欧米列強に同行した同士だけですので、民衆や西郷には理解してもらう術がありませんでしたが、結果的に日本は植民地化されずにその後欧米列強の仲間として認められます。
(注:日清・日露戦争やその後の世界大戦を肯定するつもりは全くございません)

 色々と長くなってしまいましたが、以上のことから言える「学ぶ目的」の1つ目「少し先の未来の意思決定に必要だから」となります。
 
これは言い換えれば情報をたくさん持っている方が先の意思決定まで考えられると言うことです。もちろん、どのような情報を持っているかで意思決定の客観性や正当性も変動するので、情報の質も重要になるはずです。しかしながら全く情報が無ければ出来ない意思決定もあることは重要な視点かと思います。

三浦知良選手(カズ)の言葉

 三浦知良選手(カズ)と言えば、サッカー界ではJリーグ創成期から活躍するパイオニアであるだけでなく、今なお現役生活を続けている方ですので、余計な説明はいらないでしょう。
 そんな三浦知良選手がある記事のインタビューで以下のようなコメントを残したと言われています。

学ばない者は人のせいにする。自分に何が足りないかを考えないから。
学びつつある者は自分のせいにする。自分に何が足りないかを知っているから。
学ぶことを知っている者は誰のせいにもしない。常に学び続ける人でいたい。
(2010年11月、サッカー選手のあり方について語った言葉)

日めくり KAZU魂のメッセージ.2011

 この記事の言葉はSNSの記事か何かで自分も目にしたことがあり、それ以来好きな言葉の一つになっております。
 この言葉から言える「学ぶ目的」の2つ目「他責思考から自責思考、その先のシステム思考へ、思考を深化させるため」と考えました。

  1. 学ばない(学ぼうとしない)人は足りないことすら考えないから人のせいにする。(他責思考)

  2. 学びの途中にある人は考えているけれど何かが足りない(無知の領域を自覚している)から自分のせいにする。(自責思考)

  3. 常に学び続けている人は失敗や過ちを成長・学びの機会と捉えるから、誰のせいにもしない。むしろそこから構造やシステム上の改善点を見つけてより良くする。(システム思考)

 この過程は何か一つでも継続して経験や学習を繰り返さないと辿れない過程であると感じます。
 また、キャリア発達の観点からも新人⇒先輩(主任)⇒上司(管理職)と、役職がついたり教育指導に関わる人が思考のモデルチェンジを求められる要素にも感じます。
 知識や経験の視点で言えば、先ほどの大久保利通の例は知識や経験の「横の幅」の要素に対して、今回の三浦知良選手の例は知識や経験の「縦の深さ」の要素に繋がる考えと捉えられるでしょう。

ヘンリーフォードの言葉

 最期に、学ぶ目的と言うよりも、「学び続ける」目的に通じる言葉で締めたいと思います。
 3つ目の目的「いつまでも若い(しなやかな)精神を保つため」を挙げた理由が以下の通りです。

「20歳であろうが80歳であろうが、学ぶことをやめた者は老人である。学び続ける者はいつまでも若い。人生で一番大切なことは、若い精神を持ち続けることだ」
 人間が人間であるためには、学び続ける必要がある。これこそ、学ぶということの本質かも知れません。

岡崎かつひこ. お金に困らない人が学んでいること(p.53). すばる舎

 これは今読み進めている本からの引用ですので、余計な説明はしません。
 しかしながら、自分よりも上手にSNSを使いこなす高齢者の方や、アクティブに運動しているシニアの方々の表情はいつもイキイキとしている印象ですので、このことは学びの本質に含まれているのでしょう。

 自分もこの一年、文章に向き合いながら学び続けて行けるようにしたいです。
 ここまでご一読いただき誠にありがとうございました。
(ここまで、4268字)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?