ギュスターヴ・ル・ボン「群衆心理」 教育と訓練②

この教育法――これにラテン式と言う形容詞を関するのは至極当然である――の第一の危険は、心理学上の根本的な誤謬に基づいていることなのである。
すなわち、それは教科書の暗証が知力を発達させると信じこんでいることなのである。そこで、人々は、できる限り教科書をおぼえようと努める。そして、青年は、小学校から博士の学位や教授資格を得るまで、ただ教科書の内容を鵜呑みにするだけで、けっして自分の判断力や創意を働かせないのである。青年にとって、教育とは、暗証と服従とを意味する。前文部大臣ジュール・シモン氏が、こう書いている。

「課目を習い、文法や綱要を暗記し、むやみに反復し、むやみに模倣する。これは、滑稽な教育法であって、そこでは、一切の努力が、教師には絶対に誤りがないと妄信することであり、結局、その努力が、われわれの知能をかえって減退させ、無力ならしめるにすぎないのである」

もしこういう教育法が、単に無用であるというにすぎないならば、多くの必要な事柄のかわりに、クロテールの子孫の系図や、ヌーストリートオーストラジーとの抗争や、あるいは動物学上の分類などをとかく教えこまれる不幸な児童たちに同情するだけですまされるかも知れない。ところが、この教育法は、それよりもはるかに重大な危険を呈するのである。その危険とは、この教育を受けたものに、自分の生れながらの身分に対する激しい嫌悪の念と、そこからのがれ出ようとする強烈な欲望とを吹き込むことである。労働者は、もう労働者としてとどまることを望まず、農夫は、もう農夫であることを望まず、そして、中流人の末輩も、その息子たちのために、国家から棒給を受ける官職以外のどんな職業をも眼中におかないのだ。フランスの学校は、実生活に適応するように人々を仕込むのではなくて、成功のためには難の相違のひらめきも要しない官界を目あてに、人々を仕込むにすぎない。この学校は、社会階級の下層においては、自分の境遇に不満を抱き、ともすれば反抗しようとするあのプロレタリアの群を生み出し、社会階級の上層においては、わが国のような軽佻浮薄な有産階級を生み出す。この有産階級は、懐疑的であると同時に物事を軽率に信じやすく、神意の現れとしての国家に対する迷妄的な信頼の念が心にしみこんでいるが、しかもたえず国家にくってかかって、自分の過失を常に政府に転嫁し、そのくせ当局の仲介がなくては何事をも企てることができないのである。

(つづく)


ギュスターヴ・ル・ボン 「群衆心理」

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