宗教の事件 19「オウムと近代国家」より 三島浩司

三島 その通りだと思いますね。しんどいけれども、やらないかんね。大月さんや橋爪さんの本は拝読しとるから、そのあたりの話も私なりにできなくはないのだけど、それは私の任ではない。そこで、弁護士として、橋爪さんの破防法に関する見解について私の感想を述べさせてもらいます。
橋爪さんの論議の内容は、結論とも賛成なのですが、一点だけつけ加えるとすれば、破防法という法律の最大の問題は司法手続き、つまり裁判を通さず行政手続きによって憲法21条の言論・出版・表現・結社の自由を全面的に奪う結果をもたらす点かな、と思います。従来より、憲法21条の表現の自由などに対する制限立法については、憲法学上、「L・R・A原則」、つまり当該立法目的を達成するにあたって他により制限的でない手段があれば、当該制限立法は違憲、無効であるとの憲法判断の準則など、厳格な基準による審査が必要だとされている。

これを破防法にあてはめて考えてみると、現在で予想される社会治安を害する恐れのある行為に対して、他により制限的でない手段(全面的に憲法21条の保障を奪うものでない)により目的が達成されるならば、少なくとも破防法の適用は認められるべきではないということになります。この点、橋爪さんの指摘にあるように、適用の第三の要件「将来にわたる破壊活動を反復継続するおそれ」が客観的に見て、極めて差し迫ったものとして認めて初めて他の既存の法規によっては社会全体の安全を保持し得ないから、同法を適用するということが合理性を有することになる。

破防法は一種の非常事態措置法と言うべき法律だから、またそうであるがために迅速、果敢に適用されるべきであるとの要請から行政手続きによる団体の解散指定という方法がとられているのだから、予想される「非常事態」の実態が国民の誰もが納得できる状況がなければならないというべきです。ところが、橋爪さんも指摘しているように、現在そのような具体的危険のないことは明らかであり、抽象的ムード的に危険があるというだけで適用を認めるのは、百害あって一利なしと言うべきだと思いますね。

私が一番恐れているのは、適用を認めた場合の派生的効果、影響です。何回も言っている、今日の社会を覆っている異物排除の方向がいっそう顕著になってくること、さらには、報道などに対する規制が、末端の捜査担当者のしいによって行われる危険があることなんです。

たとえば、解散指定によって団体活動としての修行、心境活動は全面的に禁止となり、「元」信者は常に監視下に置かれるわけですが、彼らに対するマスコミの取材活動も破壊活動を助長幇助する恐れがあるとして警告を受ける。その結果、報道に萎縮効果をもたらす点です。マスコミ関係者は、今回はオウムに関することで自分には関係ないと思っているようだが、能天気に構えていると大変なことになってしまうことを少しは冷静になって考えてみる必要があると思うね。

そういう意味で、今日の状況は「馭者のいないファシズム」の戸口にわれわれは立っている、言えるのかもしれませんなあ。

最近、塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読んでいて、大変面白い個所にぶつかったので触れておきます。

紀元前63年秋、ローマは「カティリーナの陰謀」というクーデター計画に震撼する。この首謀者を「元老院最終勧告」の発動によって、裁判なしに即刻死刑にすべきか否か、元老院は紛糾する。この席で二ユリウス・カエサルの弁論は、今日の日本の社会状況でも十分通用し得るものだと思う。
「元老院議員諸君、……ヴェールにおおわれている真実を見極めるのは、容易なことではない。とくにそれが、一時期なりとも人々に満足を与え、共同体に利すると思われた場合はことにむずかしい。理性に重きを置けば、頭脳が主人になる。だが、感情が支配するようになれば、決定をくだすのは感性で、理性のたち入るすきはなくなる」
「あなたは言うだろう。この採決は、国家への裏切者に対するものであることは確かだ、と。だが、民衆というものは常に、誰かに、機会に、時代に、運命に翻弄されるものである。……しかし、議員諸君、あなた方はそうではない。それゆえに今、例をつくれば、そのが以後どのような影響をおよぼすかも考慮しなくてはならない。
どんな悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によったものであった。だが、権力が、未熟で公正心に欠く人の手中に帰した場合には、良き動機も悪い結果につながるようになる。はじめのうちは罪あること明らかな人を処刑していたのだが、段々と罪なき人まで犠牲にするようになってくる。
「今回が先例となれば、先例があるからと行って執政官が、そして『元老院最終勧告』が剣を抜き放った場合、誰が限界を気づかせ、誰が暴走を止めるのか」

これを読んでいると、人間の基本的な考え方というものは洋の東西を問わず、変わらないものなんだなあ、という気がするね。だからこそ、「老人、いにしえを説かざれば、後世の者、歴史を学び得ず」と言われるように、いついかなる時でも、歴史的教訓に立ち返って冷静に判断する姿勢が大事なんだと思いますよ。マキャベリじゃないけど、「天国へ行くための最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知すること」なんやから。

<了>


「オウムと近代国家」(南風社)

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