故郷というものが

いつだったか、京都からの帰途、瀧井孝作氏が同車した折だったが、何処かのトンネルを出たころ、窓越しにチラリと見えた山際の小径を眺めて瀧井氏が突然ひどく感動したので驚いた。

ああいう山道をみると子供の頃の思い出が油然と湧いて来て胸が一杯になる、云々と語るのを聞き乍ら、自分には田舎がわからぬと強く感じた。自分には田舎がわからぬと感じたのではない、自分には第一の故郷も、第二の故郷も、いやそもそも故郷という意味がわからぬと深く感じたのだ、思い出のない処に故郷はない。確乎たる環境が齎す印象の数々が、つもりつもって作りあげた強い思い出を持った人でなければ、故郷という言葉の孕む、健康な感動はわからないのであろう。そういうものも私の何処を捜しても見つからない。振り返ってみると、私の心なぞは年少の頃から、物事の限りない雑多と早すぎる変化のうちにいじめられて来たので、確乎たる事物に即して後年の強い思い出の内容をはぐくむ暇がなかったと言える。思い出はあるが、現実的な内容がない。殆ど架空の味(あじわ)いさえ感ずるのである。

「故郷を失った文学」 小林秀雄

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