ギュスターヴ・ル・ボン「群衆心理」 神話

ブールボン王朝時代には、ナポレオンは、一種牧歌風な愛すべき人物、博愛家で自由主義者、貧しい者たちの友となり、詩人たちのいうところによれば、貧しい者たちこそ、その茅屋のなかに彼の追憶をとどめていたにちがいないのである。ところが、三十年後には、この好人物の英雄が、三百万の人命をもっぱら自分の野心のために犠牲にした、権力と自由との横領者、殺伐な専制君主となっていた。現在でもなお、この伝説は、変貌しつつある。幾星霜をへたのちには、後世の学者たちは、かく矛盾した記録を前にして、往々仏陀の実在が疑われるように、おそらくこの英雄の実在をも疑うであろうし、そして、彼のうちに、何か太陽神話めいたものが、ヘラクレス伝説の発展したものしか見なくなるであろう。

後世の学者たちは、こうした不確実さにも、容易に甘んじてしまうにちがいない。なぜならば、今日よりも群集の心理に通ずるようになっている彼らは、歴史がほとんど神話をしか不朽に伝えないことを知っているだろうからだ。


ギュスターヴ・ル・ボン 「群衆心理」

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