内田樹 「下流志向」

都市生活の中でいかに時間性を回復するかというのは、すごく大きな、面白いテーマだと思います。僕の思いつきですけれども、一つあるとすれば、ルーティンを守ることです、日課を崩さない。意外かもしれませんが、都市化のもたらしたいちばん大きな変化は、人々が日課を守らなくなったということだと思っているんです。

僕が子供のころ、父親は毎日同じ時間に同じ電車で帰ってきました。家には電話がなかったですから、会社から「今日は遅くなる」という連絡が入ることはありえないわけです。遅くなるときは朝出かけるときに、「今日は遅くなるから晩飯は要らない」といってでかける。一日の途中で話が変わるということはあり得ないわけです。

だから、夕方から雨が降ってくると、子どもたちは傘を持って駅まで父親を迎えに行ったわけです。何時の電車で帰ってくるからわかっているから。午後から雨が降ってくると、そういう子供たちが駅前にちらほらいる。電車からお父さんが降りてくると、傘を差し出して、お父さんと手をつないでいっしょに帰ってくる。そういうときにはごほうびに、ちょっと果物を買ってくれたり、文房具を買ってくれたりする。

今はそういうことってあり得ないわけですね。突然「今日は遅くなる」と電話すれば済むし、夜遅く帰ってきても、「ご飯を食べたい」といえば、電子レンジで五分もあれば支度ができる。昔みたいに釜でご飯を炊いて、七輪で魚を焼くというようなことをしているときは、家族全員がきちんとルーティンを守る生活をしていないと暮らしていけない。

そうすると、なんというか、生活がもっとゆったりと平和なんですよ。ルーティンを守って暮らしていると、一日が長いんです。時間の感覚とか四季の変化とか朝夕のごとく微細な空気の変化とか。雨上がりの土の匂いとか、最初の南風とか、台風の予兆の黒雲とか、そういうものが「イベント」としてくっきりと際立ってくる。子供は時計を持っていませんから、表で遊んでいても、自分でだいたいの時間を計測できないといけない。身体の中に時計があって、なんとなく時間がわかる。ご飯の時間が六時半と決まっているから。五時四十五分くらいになると猛烈にお腹が空いてくる、身体そのものがきちんと時間化されていたわけです。

今の子供たちを見ていると、曜日によってスケジュールが違うし、ご飯の時間も違う。この日は塾にいって、この日はスイミングにいって、この日はピアノに行って・・・・・・という風に毎日生活がイレギュラーじゃないですか。イレギュラーな生活って、ストレスがきつい。それに耐えるためには時間意識をむしろ鈍感にしていかないといけない。毎日同じ時間にお腹が空いたんじゃ、イレギュラーな生活には耐えられませんから、寝る時間も食事の時間も風呂に入る時間も、毎日違うような生活をしていれば、体内時計は狂ってくる。日変化もわからなくなるし、四季の変化にも気づかなくなる。

だから、僕はまず家から電話をなくしたらどうかと思うんですよ。「今日は遅くなる」というのは「なし」にするんです。朝、家族同士で確認したスケジュールはその日一日は変えちゃいけない。帰りの電車もいつも同じ時間。雨が降ったら駅まで傘持って迎えに来てもらう。こだわるようですけれど、あれはほんとうにいい習慣だったと思うんです。子供のころ、父親と二人で言葉を交わす機会って、そういうときしかなかったですから。都市化、近代化のせいで、ああいう習慣を消失したことが僕にはほんとうに情けないですね。

今は携帯が普及しましたから、もう「待ち合わせ」という習慣そのものも消失しつつありますね。でも「何時何分にどこで」というのはけっこう高度な技術が要るんです。自分が今いる場所からランデブー・ポイントまで何分かかるか、これは「地図を見る能力」よりもう一次元高度な技で、「時間の中での地図上の自分の位置変化」を予知できないといけない。

ラグビーでは「あのプレイヤーはスキャンできる」という言い方をしますけれそ、これは今から何秒後にどこにディフェンスのスペースができて、そこに誰がボールをパスしてくるかを予測してそこめがけて走り込む能力のことです。ボールとプレイヤーの「ランデブー・ポイント」を予知する力です。天才的なプレイヤーというのは、野球でもサッカーでもバスケットボールでもそうでしょうけれど、時間変数込みで、三次元のシミュレーションができる。背走していって、くるりと振り返ると外野フライがすっぽりとグローブに収まるというような芸当ができる。

「待ち合わせ」をするのは、こういう能力開発の基礎訓練だと思うんです。携帯のせいで、もう「待ち合わせ」は死語になりつつある。だって、待ち合わせ時間に「ごめん、今家出るところ」でも、その時間に連絡を入れたということで許されるわけですから、ドタキャンも多いし。

最近若い犯罪者って、「間尺に会わない」ことをやりますよね。それも同じことだと思う。むかついたので人を刺したとか、怒られたので家に火をつけたとか。人を刺せば瞬間的に「むかつき」は解消するでしょうし、家を燃やせば瞬間的に「怒り」は鎮まるかもしれないですけれど、「その後」があるでしょう。逮捕されて、拘置されて、裁判を受けて、刑務所に送られて、前科者として暗い一生を送る・・・・・・という時間の流れをシミュレーションできれば、一瞬の「むかつき」の解消に人生を犠牲にするほどの価値がないということはわかるはずです。等価交換にこだわっているわりには、平気で人生をたたき売りしている。

こういうのはやっぱり時間的な「スキャン」能力が衰えていることの徴候じゃないかと思うんです。無時間モデルに慣れすぎたせいで、今しか見えない。「今しか見えない」とか「今しかない」とか「明日なんかない」というのは最近のJポップの歌詞によくありそうですけれど、無時間モデルがそこまで身体化したのかと思うと、ちょっとうんざりしますね。


内田樹 「下流志向 ー学ばない子供たち 働かない若者たち」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?