辺見庸 私は、今の社会というのはなんていうのでしょう、例えば集合的な無意識っていうのでしょうか

私は、今の社会というのはなんていうのでしょう、例えば集合的な無意識っていうのでしょうか、あるいは集団的な無意識……ちょっとユングの言葉のようですけれども……に左右されつつあるような気がするのですね。巨大メディアには私は決して個人的恣意や人格というものがないと思うのです。一人ひとりが全体のパート、パートに関わっているだけです。彼ら、彼女たちは、私が地下鉄サリンの現場で目撃した職場に遅れまいとする通勤者たちのように、みながきまじめなのです。みなが誠実であるわけです。総じて職務を裏切ることはないと思うのです。それでも、メディアはオウム報道やシンプソン裁判のように社会的ヒステリックをつくり、メディアファシズムも形成するのだと思うのです。

核兵器は巨大な一つの産業にもなっていたわけですが、十数万もの人たちがそれぞれのパートでみな勤勉でまじめに仕事に励んでいる。よき生活人でもある。敬虔なクリスチャンかもしれない。しかも皮肉にもその人たちのなかにはエコロジストもいたりしてバードウォッチングをしたりもする。奇妙なことに、現代では兵器生産に携わることとエコロジストでもあることが矛盾として感じられないのですね。その人たちは善意に満ち溢れているかもしれないのですが、仕事のパートのなかで全体像を見ることができない。どういう精神を生産しているか、どういう物質を生産しているのか、全体像を見ないで仕事を誠実に果たし、結果的に核兵器ができていく。これは本質的には犯罪だとわたしは思うのです。悪意なき犯罪ですね。

で、犯罪として意識されない犯罪、これはやはり私はオウム真理教のなかにもあったのではないかと想像するのです。ここのパートの……果たしてなにをつくるのか、なにを運んでいるのかわからない……勤勉な仕事のプロセスの最後のほうにサリンというものがあったりする。全体を計画した幹部は別にして、一般信者には組織への誠実さはあっても、全体像を考える想像力が欠けていたし、そうした想像力が奪われていたのだと思います。

マスメディアもそうですね。メディアに働く人々を悪い人間と良い人間というふうに分けて、悪い人間たちがメディアを支配しているから、全体に非常に短絡的なイメージを先行させ、大きなヒステリアをつくってしまうということではないのだとわたしは思います。むしろ資本の論理みたいなもの、あるいは集合的な無意識と盲目的誠実さのなかで、マスメディアが客観的には次第に荒廃してきているのだと思います。日本のこのメディア状況というのは、われわれが一度も歴史的には経験していないテクノロジーの拡張、過剰な拡張と、おびただしい量の情報の需給関係のなかで生じたメディア・ファシズムなのかもしれません。この言葉はわたしがいいだしたのですが、メディア・ファシズム状況には、不思議なことに、強力な支配者も指揮者もいないのです。建前としてはメディア内部に民主主義もあるのに、メディア・ファシズムは生ずるのです。そこには一人の演出家、ヒットラーのような演出家、ムッソリーのような演出家や指揮者、支配者もいないのですね。全体としては非常に勤勉な人たち、善意に満ち満ちた人たちが、結果としてメディア・ファシズムを、ただ勤勉で誠実でしかないがゆえに、やっているわけです。

総合するといろいろな事情が噛み合わさって、世界を短い射程でしか考えない傾向が、私、戦後五十年のなかでいまがいちばん著しいのではないかというふうに思っているのですね。


辺見庸 「不安の世紀から」 1997年初版

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