アントニオ・タブッキ「レクイエム」 なぜ自分は物を書くのだろうか

わたしはひとり書き物をしながら、なぜ自分は物を書くのだろうかと自問していた・・・・・・わたしのこしらえる話は、できそこないの物語、決着のつかない物語だった・・・・・・なんだってこんな話を書こうなどと思ったのだろう。なぜここで自分は書いているのだろうか、と。さらに、こんな風にも考えていた。この物語はわたしの人生を変えようとしている。いや、すでに変えてしまったのだ。これを書きあげてしまえば、わたしの人生はそれ以前とはちがったものになってしまうだろう。二階にこもってできそこないの物語を書きながら、わたしはそんな自問を重ねていた。この物語は、だれかがあとで自分の人生のなかで真似をして、現実の世界に移し変えてしまうだろう。はっきりと意識していたわけではなかったが、こんな物語を書いてはいけないのだと、なんとなく察しはついていた。なぜなら虚構を模倣して、それを真実に変えてしまうだれかが、かならずどこかにいるものだから。事実、そうだった。その年、だれかが私の物語を模倣した。正確に言えば、物語が受肉をし、聖餐のパンと葡萄酒のように化体したのだ。わたしはそのできそこないの物語をもう一度生きなければならなかった。ただし、今度は、ほんとうの意味で。今度は、紙の上の人物は血肉をそなえた存在になった。わたしの物語は日々順を追って進行していった。わたしはそれを暦のうえでたどっていき、やがて、先が読めるほどにまでなった。


アントニオ・タブッキ 「レクイエム」

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