唐木順三 怒りと暴力

このごろ次々に起こった学校内での暴力ざたに着いての批判は、ほぼ出つくしてしまったといっていい。しかし批判の立場は、主として局外者のそれが多く、教師自身の考え方は、日教組の通達以外には目にとまらなかった。

なるほど、今度の暴力批判は、東京都内のある中学の教師が、生徒をなぐり殺したという不祥事、また千葉県下の、生徒が女教師をバットを持って追い回した事件をきっかけとして起ったが、批判は、その事件そのものに対しての批判を越えて、現代教育、あるいは教育者一般のあり方に向けられたことに特徴があった。つまり、個々の事件は、いわば氷山の露出部にすぎず、その底に、また背後に、つぎつぎと暴力事件を引き起こす可能性をひかえているという見方が一般的であり、事実また、川崎市や東北にも相ついで教師の暴力行為が起った。

今度の暴力問題は、戦後の日本のおかれた状況につながり、日教組のあり方につながり、教師や生徒・児童のあり方に、深くつながっている。さらには、法と暴力、秩序と非合法、改良と革命という大問題につながると同時に、列をみだして電車の席を争うというような、日常の煩些事にもつながっている。そういうことについては、先生方はおのおの自省するところがあったにちがいないから、ここにはもう書くまい。文部省の通達、すなわち、暴力事件の起るのは、教師の人格、資質に欠くるところがあり、学校の規律のゆるみからきているというのも、一応その通りで、ごもっともというほかないのだが、さてどうしたらよいかという点になると、この通達は抽象的というほかはない。

わたしは、いまどきの小中学校の先生方の労苦は、実にたいへんなものだと思う。二人、三人の子どもをもつ家庭でも、わが子ながら、ほとほと手を焼いているところが多い。そういう秩序、規律というものが崩れてしまったことが、現代の、ことに都会の特徴といってよい。しつけということばが、どこか非現代的な封建的な臭みをもって感じられ、子どもの自由を奪うような、がんこおやじの所為のように思われている。そうしておいて、実はわが子をもて余しているという場合が多いのである。そういうところに育った子供を数十人あずかるということは、たいへんどころではない。若い先生が、ときにカッとなることも心理的にはよくわかることである。

わたしは自分の経験から見て、カッとなって常軌を逸してしまうのは、こちらがどこかいらいらしている場合に多い。いらいらは多く忙しいときに起る。処理しなければならぬことがらが、自分の処理能力を越えたときに、通常の自分を失ってしまう。

勿論、いらいらしやすい性質を持った人⑨もいる。そうでない人もいる。いらいらしやすい性質を自分の反省で治すことも必要に違いないが、一方、人をいらだたせるような原因を除くことが必要である。この点で朝日新聞の7月18日の社説「今の学校では、規定以上の児童・生徒が、教室にあふれている。定員過剰に、教師は苦しみ、疲れ、子どもたちの学力低下の原因もつくっている。そういうすしづめ教室を解消し、教員定数を確保して、教育上のよい環境をつくってやるのは、少なくとも行政官側の最もたいせつなしごとだと思う。」は当っている。

もうひとつ、行政官側にのぞみたいのは、教師の待遇である。金のないとき、借金に老いたてられたとき、いらいらしやすくなるのは一般である。明治、大正、戦前、前後の教師の、たとえば、初任給を当時の物価と比較した統計をだしてみれば、今日の教師の待遇が、どんなものだかはすぐわかることである。こういうことは、単に行政当局に希望するぐらいでは実現できず、そこに日教組などの役割もあるのだが、私は、さらに教師がやろうと思えば、いますぐできることのひとつを、特にここで考えたい。

それは、以前にも書いたが、教師が自分でくふうして、もっと暇をつくることである。忙しさをへらすことである。教室で全力を出すために、教室以外での活動がうまくいかず、子どもがついてこないとき、教師はいらいらしたり、また、そこを越すと、子どもを甘えさせたりしてしまう、いったん甘やかされた子供は、いよいよそれに乗じて、手におえなくなっていく。教師の中心は教室にあり、教室活動を十分にするためには、それだけの準備がいるわけだから、それに多くの時間をさかねばならない。教室以外の仕事はできるだけ整理すべきである。ことに中学においては、教師自身の総合学力の向上が必要であり、そのための時間をうみだすくふうがほしい。

私はもうひとつ、どうしても付け加えたいことがある。子どもに対して暴力を奮うことはいけないことに決まっている。そして、今度の暴力事件は、教師に対する注文、反省を呼び起した。しかし、このために、教師が委縮してしまいはしないかという心配がある。

私は「怒る」ことの少なくなってきた現状を来世的な現象のひとつだと思う。起こるエネルギーさえ失ってしまったら、教育もなにもあったものではない。世論や多数とともにでなくては怒ることもできないというのは、精神の衰弱である。不正や不正直や、ごまかしやまやかしに対して、心の底から怒ることのできないところには、委縮したゴシップうわさ話や、ひそひそ話が流行する。怒り心頭に発するということのなかに、私は一種の形而上学的な意味をさえ見いだす。怒りは突発的である。あらかじめ用意された怒りは、真の怒りではない。なにか、このひとつの聖なるものが、けがされるところに怒りが突発する。扇動や世論と無関係な怒りが起る。これはまた自分の名誉が傷つけられたり、威信がこわされたりするとき、ヒステリカルに、カッとなるのとは本質的には違う。個人的な憎しみではないのである。真の怒りは、論理を越えたところで論理的であり、怒りの場面が形而上学的な共通の場面を持つことにおいて説得的である。

真の怒りは、暴力とは、まるで違う。暴の時の影すらあったら真の怒りではない。


唐木順三 「朴の木」(昭和35年発刊)

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