太宰治 さて、それから僕は一生涯の不動の目標を樹立してすすまなければならぬのだが

さて、それから僕は一生涯の不動の目標を樹立してすすまなければならぬのだが、これが、むずかしい問題なのだ。一体どうすればいいのか、僕には、さっぱりわからない。ただ、当惑して、泣きべそを掻くばかりだ。「偉い人物になれ!」と小学校の頃からよく先生たちに言われて来たけど、あんないい加減な言葉はないや。何がなんだか、わからない。馬鹿にしている。全然、責任のない言葉だ。僕はもう子供でないんだ。世の中の暮らしのつらさも少しずつ、わかりかけてきているのだ。漱石の「坊ちゃん」にだって、ちゃんと書かれているじゃないか。高利貸しの世話になっている人もあるだろうし、奥さんに怒鳴られている人もあるだろう。人生の気の毒な敗残者みたいな感じの先生さえ居るようだ。学識だって、あんまり、すぐれているようにも見えない。そんなつまらない人が、いつもいつも同じ、当たりさわりの無い立派そうな教訓を、なんの確信もなくべらべら言っているのだから、つくづく僕らも学校がいやになってしまうのだ。せめて、もっと具体的な身近な方針でも教えてくれたら、僕たちは、どんなに助かるかわからない。先生御自身の失敗談など、少しも飾らずに聞かせて下さっても、僕たちの胸には、ぐんと来るのに、いつもいつも同じ、権利と義務の定義やら、大我と小我の区別やら、わかりきったことをくどくどと繰り返してばかりいる。きょうの終身の講義など、殊に退屈だった。英雄と小人という題なんだけど、金子先生は、ただやたらに、ナポレオンやソクラテスをほめて、市井の小人のみじめさを罵倒するのだ。それでは、何にもなるまい。人間がみんな、ナポレオンやミケランジェロになれるわけじゃあるまいし、小人の日常生活の苦闘にも尊いものがある筈だし、金子先生のお話は、いつもこんなに概念的で、なっていない。こんな人をこそ、俗物というのだ。頭が古いのだろう。もう五十を過ぎて居られるんだから、仕方が無い。ああ、先生も生徒に同情されるようになっちゃあ、おしまいだ。本当に、この人たちは、きょうまで僕になんにも教えてくれなかった。僕は来年、理科か文科か、どちらかを決定的に選ばなければらぬのだ!事態は切迫しているのだ。まったく、深刻にもなるさ。どうすればよいのか、ただ、迷うばかりだ。学校で、金子先生の無内容なお話をぼんやり聞いているうちに、僕は、去年わかれた黒田先生が、やたら無性に恋しくなった。焦げつくように、したわしくなった。あの先生には、たしかになにかあった。だいいち、悧巧だった。男らしく、きびきびしていた。中学校全体の尊敬の的だったと言ってもいいだろう。或る英語の時間に、先生はリヤ王の章を静かに訳し終えて、それから、だし抜けに言い出した。がらりと語調も変わっていた。噛んで吐き出すような語調とは、あんなのを言うのだろうか。とにかく、ぶっきらぼうな口調だった。それも、急に、なんの予告もなしに言い出したのだから、僕たちは、どきんとした。

「もうこれでおわかれなんだ。はかないものさ。実際、教師と生徒の仲なんて、いい加減なものだ。教師が退職してしまえば、それっきり他人になるんだ。君達が悪いんじゃない、教師が悪いんだ。じっせえ、教師なんて馬鹿野郎ばかりさ。男だか女だか、わからねえ野郎ばかりだ。こんな事を君たちに向かって言っちゃ悪いけど、俺はもう、我慢が出来なくなったんだ。教員室の空気が、さ。無学だ!エゴだ。生徒を愛していないんだ。俺は、もう、二年間も教員室で頑張って来たんだ。もういけねえ。クビになる前に、俺のほうから、よした。きょう、この時間だけで、おしまいなんだ。もう君たちとは逢えねえかもしれないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強しておかなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記していることでなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するということを知ることだ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが尊いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ。俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生忘れないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺のことを思い出してくれよ。あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。最後に、君たちのご健康を祈ります。」少し青い顔をして、ちっとも笑わずに、先生のほうから僕たちにお辞儀をした。

僕は先生に飛びついて泣きたかった。

「礼!」組長の矢村が、半分泣き声で号令をかけた。六十人、静粛に起立して心からの礼をした。

「今度の試験のことは心配しないで。」と言って先生は、はじめてにっこり笑った。

「先生、さよなら!」と落第生の志田が小さい声で言ったら、それに続いて六十人の生徒が声をそろえて、

「先生、さようなら!」と一斉に叫んだ。

僕は声をあげて泣きたかった。

黒田先生は、いまどうしているだろう。ひょっとしたら出征したかも知れない。まだ三十歳くらいの筈だから。


太宰治 「正義と微笑」

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