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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(30)

第3章 ゼンティス

ザンクト・ガレン州立病院

 病院のベッドにヴァーツラフが横たわっている。頭と両手には包帯が巻かれ、腕には点滴のチューブが入っているが、それを除けば問題なさそうだ。ドアが開いてエミリアが顔を出した。
「ヴァシェク…」
「やあ、ミリィ」
 顔は微笑んでいるが、さすがに声は弱々しい。彼女はベッドのそばに駆け寄った。
「大丈夫なのね?低体温症だって聞いたし、頭の検査もしたんでしょう。病院の人に聞いたんだけど、あと少し救出が遅れたら大変なことになってたって…」
「ああ、いまはもう平気だ。まだ両手と脚が痛むけどね」
「脚をどうかしたの」エミリアはヴァーツラフのシーツをそっと持ち上げた。左脚にはギプスが巻かれている。
「ああ、ヴァシェク、折れてるの?」
「後でわかったんだ。不思議だよね、助け上げられたときにはなんでもなかったのに」彼は力なく笑った。
「でもほんとによかった。助かってよかった…」彼女は涙ぐんでいる。
「ミリィ、僕は、ほら、大丈夫だよ。ちゃんと生きてる」
「もっと早く来たかったんだけど、警察で何度も何度も同じ話しさせられて…」
「ヴァシェク!」
 クラーラがあわてた様子で入ってきた。「ヴァシェク、大丈夫か?」
「あれ、所長、どうしたんです?」
「心配で飛んできたんだ。怪我はどうだ?」
「たいしたことありません」
「たいしたことあるでしょ、脚は骨折してるし両手は包帯でぐるぐる巻きだし。頭打って検査結果待ちのくせに」エミリアは怒ったように言った。
「でも、命に別状はないし、脳波も正常みたいだし、大丈夫だよ」
「そう、本当によかった。あとのことは任せて、ゆっくり治しなさい」
「すいません、クラーラ。そういえばペンダントは、」
「そのことはいいんだ。最初からそう言ってたじゃないか」
「でも、あいつはどうなりました?」
「あいつ?」
「僕が追ってた奴。ペンダントを盗んだ…そうだ!ペンダントは?ペンダントは手に入ったの?」
「残念ながら、その人は亡くなったよ」
「あいつ、僕の目の前で、急に姿が消えたんだ……」ヴァーツラフは天井を見つめた。
「朝からずっとテレビでやってるよ」
「ペンダントも見つかってない。でもそんなことはどうでもいいことだ。君が助かったことが大事なんだ。サー・ジェフリーも心配していた」
「マエストロが?」
 クラーラはスマホを取り出して電話をかけた。「サー・ジェフリー?」
「クラーラか、待ちかねたぞ。ヴァシェクはどんなだ?」彼女はにっこり笑ってスマホをヴァーツラフの耳に近づけた。
「先生…」
「ヴァシェクか?」
「ぼくは…」
「このバカもん!自分の命とろくでもないペンダントと、どっちが大切かもわからんのか」
 その怒鳴り声はエミリアにも聞こえた。
「先生、ろくでもないって、アレのためにさんざん苦労したじゃないですか」
「それはもう終わっとる。君のおかげで実在は証明された。それがすべてだ。まったく余計なことしおって」
「でも、盗まれるかもしれなかったんですよ」
「あんなもの、盗っ人にくれてやればいいんだ。おまえがいなくなったら、誰がわしの運転手を務められると言うんだ」
「僕は運転手ですか」
「そうとも。口の減らない、へそ曲がりの、ロバみたいに頑固な、かけがえのないわしの友人だ」
「え?」
 ここでクラーラはスマホを自分の耳に当てた。「サー・ジェフリー、おわかりのようにヴァシェクは大丈夫です。ご心配いただいて、私からもお礼を申します。ありがとうございました」
「クラールカ、」サー・ジェフリーの声は囁くように小さくなった。
「はい?」
「わしは今非常に機嫌が悪い」
 クラーラは笑い出した。「わかってますよ、マエストロ」
 電話を切ったクラーラはヴァーツラフに向き直った。
「そうだ、ヴァシェク。警察には余計なことを言うんじゃないぞ。ペンダントとかウリエルとか口にしたら、いろいろ面倒なことになる。わかるな」
「そういえば、さっき警察の人が事情を聞きに来ましたよ」
「あたしも聞かれました」エミリアも口を揃えた。
「何を話した?」
「何も。ただの旅行だって」
「ペンダントのことは?」
「一言も言ってません。大丈夫ですよ、僕にもそのくらいの分別はありますから。国際問題になったら所長にどやされますからね」
「あたしも言ってません。冬山登山のトレーニングだって言っておきました」
「そうか。それなら大丈夫だな。じゃあ私はこれで戻るが、退院の日時が決まったら教えてくれ。迎えをよこす」
 クラーラが病室を出ると、急に静寂が戻ってきた。病室には二人きりだ。エミリアは微笑んでヴァーツラフにかがみ込み、顔に触れながら囁くように言った。
「ねえヴァシェク、何か欲しいもの、ある?ねえ、あたしのヴァシェク…」
  二人は見つめ合っていたが、やがてヴァーツラフが口を開いた。
「えーとね、ノッチョラータが食べたい」
「え?」エミリアは思わず体を起こした。
「でなきゃヌテラでもいいけど」
「え?」
「ヌテラ、知らないの、ミリィ」
「知ってるわよ、そのくらい。だからそうじゃなくて、なんでこのシチュエーションでそんな子供じみた食べ物が出てくんのよ。おかしいでしょ」
「え、なんで?」
「ああもう!」むくれたエミリアは、恨めしそうにヴァーツラフをにらんだ。「わかったわよ、ヌテラでも何でも持ってくりゃいいんでしょう。ホント、死にかけて少しはマシになったかと思えばヌテラ?人をバカにするのもいい加減にしてよね。あたしはあんたの母親でもなんでもないんだからね、わかる?」
「はい…」
 窓の外には雪景色が広がっているが、部屋に差し込む陽射しは明るく、春も遠くないことを告げていた。

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