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ひめゆりの塔

沖縄本土復帰50年。

いまなおたくさんの米軍基地がある、日本の中では極めて特殊な地域。
これまで、旅行で沖縄に行ったことはあったが、恥ずかしながら沖縄の歴史にしっかりと向き合ったことがなかった。

日本人として、自分自身として、それがありたい姿ではないと思ったので、この機会に学びに行くことにした。

一番最初に訪れたのは、ひめゆりの塔。沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑と資料館。

展示の数々から、改めて戦争の恐ろしさを目の当たりにして言葉が出なかった。なんの罪もない多くの女学生や教師が亡くなった。

血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷した日本兵のうめき声と怒鳴り声が絶えない壕の中で過ごさないといけなかったことは本当に恐ろしい。
負傷兵の看護のほかに、水くみや食糧の運搬、伝令、死体埋葬なども生徒たちの仕事だったそうだ。それらの仕事は弾の飛び交う壕の外に出て行かなければならない、とても危険な任務だった。
 
そして、6/18に出された解散命令で、どうしようもないまま壕を追い出され、銃撃の雨に打たれて亡くなる生徒や、また、重傷を負った仲間を置いて逃げないといけないこともあったという。
亡くなった一人一人の写真を見ていると言葉を失った。

ロシアがウクライナに侵攻している今の現実にも本当に胸が痛むが、日本人の口から日本語で「小銃で撃たれて死んだ人がいた」ということを聞くことで、現実を心で体感した。

教科書ですでに知っていた情報ではあったが、現地に足を運び、一人一人の顔を見て知る事実とは、重さが違った。

解散命令後の数日で多くの命が失われ、終戦まで争いは続いた。ずっと壕にこもっていた人もいたそうだ。

生き残った人たちは、なぜ自分たちだけ生き残ってしまったのか?と自問自答する日々が続いたそうだ。この辛さもとてつもないものだと思う。

ひめゆり学徒たちも含めて、沖縄の一連の戦いで米軍も合わせて20万人が亡くなった。
日本軍のとった沖縄での持久作戦、県民の根こそぎ動員により、人口の4分の1、12万人余にのぼる沖縄住民の犠牲をうんだ。色々なことを考えさせられる時間となった。

この資料館ができたのは1989年。
戦争体験者が年々少なくなっていく中、若い世代に戦争の実態をより分かりやすく伝えるために、ひめゆり同窓会により設立されたそうだ。

自分自身は今回が初めての訪問だったが、
今後、次世代の子どもたちへきちんと伝えられるようにしていきたいと思った。


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