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【書評】『一人称単数』(2020年)〜村上春樹本人による村上春樹論への回答

 去年発売された村上春樹さんの短篇小説集『一人称単数』。短篇集だからということもあるのか、今ひとつ話題にならなかった印象があります。


しかしこの本は言うまでもなく面白いですし、何よりも「村上春樹が村上春樹論を語っている」点において、めちゃくちゃ重要な作品だといえます。
村上春樹関連の考察や批評はそれこそ山のようにありますが、本作はそれらに対する回答という側面もあると思います。

 もっとも村上さん自身、自分の作品に対して言及していないかというとそんなことはなく、むしろエッセイでかなり積極的にヒントを出している方だと思います。ただ、ベラベラ喋るのは野暮だと考えているのか、決定的な「なにか」については明言を避けているように見受けられました。

 ひるがえって今回の『一人称単数』では、「そこまで言っていいの?」というくらいの親切設計。タイトル自体がネタバレというか、結論になっています。表題作「一人称単数」だけ、単行本化する上での書き下ろしということで巻末に収録されていますが、この作品が一番分かりやすいです。

【「一人称単数」の現代的な恐怖】

<あらすじ>
 「私」がバーで飲んでいると、いきなり知らない女に因縁をつけられる。まったく見覚えのない女は、しかし「私」のことを知っているようだ。ひたすら罵声を浴びせられ、私は逃げるようにバーを出ていく。

 要するにSNS上のクソリプとかヘイターですよね。一方的に相手を誹謗中傷する、素性の分からない人たち。今でこそネットリンチの恐怖は一般の人にも身近なものになりましたが、著名人は長らくこのストレスと向き合ってきたわけです。村上さんもその典型。
 ビッグネームになり過ぎたことで起こる弊害ー「なんか嫌い」です。
「国民的〇〇」という形容詞が付くミスチルなりキムタクなりワンピースとかについてまわる、個人的にこの言葉は嫌いですが「有名税」です。
 こうしたものを「嫌い」という場合、「なんか調子に乗っている感じがする」とか「なんか鼻につく」みたいな妬みや、「みんなが良いと言っているものを認めない俺/私」への自我がそこにあると思います。

 しかしこうしたいわゆる「有名税」は、当事者からすればたまったもんじゃありません。村上さんは、こうした批判をヒョウヒョウとかわしてきたと勝手に思い込んでいましたが、この短い文章からもハッキリとした恐怖が伝わってきます。(当たり前だけど、嫌なことを言われて何も思わない人間なんていない)読者は「一人称単数」、つまり小説家村上春樹の視点から、その日常を垣間見ます。さながら映画『マルコヴィッチの穴』のように。

 さて残りの7つの短編小説も、基本的にはメタ構造になっていると考えていいと思います。特に「なぜ小説を書くのか」と、「小説をどう読むか」の「ズレ」を幾度となく強調しているのが面白い。

「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」では、現代国語の試験の設問、「作者はどのような意図でこれを書いたでしょうか?」みたいなモノを、皮肉たっぷりにくさしています。

【なぜ小説を書くのか】

 「なぜ小説を書くのか」については、「石のまくらに」、「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」、「『ヤクルト・スワローズ詩集』」の3つで言及され、特に「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」がいちばん分かりやすいと思います。
 なぜならこれは二次創作についての物語で、幅広く共感できる内容だからです。ストーリーは、架空のレコードをでっち上げて、それについてのライナーノーツを書いたら、まさかの誌面に掲載されてしまうというもの。それだけの話なんですが、「それだけの話」というところが非常に重要です。

 だってなぜ小説を書くのかの答えなんて、「書くのが好きだから」以上でも以下でもないから。「『ヤクルト・スワローズ詩集』」では、弱小球団のヤクルトをなぜ変わらずに応援し続けているか自問自答するのですが、結局明確な理由が分かりません。好きなものが好きなのは好きだからであって、それを言語化するのは言葉のプロでも難しいということなのでしょうか。

 ここまで書くと、村上さんは「テーマ至上主義」を批判しているように思えるかもしれません。「小説には中身がなければならない」とか、「社会的なテーマや意義のないものは小説ではない」という考えへのアンチテーゼですね。実際、彼の作品の否定派が「何が言いたいかサッパリ」と、内容面を貶すのに対して、肯定派は「別に分かる必要はない、読むこと自体を楽しめ」と文章を褒めている印象があります。
 ただこの論争は、そもそも前提が間違っていると言わざるを得ません。それが良く分かるのが本作に収録されている「クリーム」という小説です。

【「クリーム」は何が言いたかったのか】

 わざと難しい言葉で言えば、宗教を持たない「日本人」がいかにして実存的不安を乗り越えるかの物語。

<あらすじ>
浪人生の「ぼく」は、かつて連弾をした女の子のリサイタルに招待されるが、案内状に書いてあった家の扉は閉まっている。途方に暮れていると、突然謎の老人が現れて...


 この抽象的な話を、「神の不在」にまつわる寓話だと類推する人は多いと思います。その証拠に「ぼく」が家の前で待っていると、キリスト教の宣教をする車から拡声器の音が聞こえてきます。しかし車は「ぼく」の前に姿を現すことなく、どこかへ消えてしまいます。
 この場面は、宗教が「ぼく」を救うことが出来ないことを象徴しています。さらに謎の老人のなぞなぞのような質問。

中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円を思い浮かべることが出来るか?

 この発想とワードセンスが、村上さんの凄さたる所以。そんな円は当然ありません。作中で「ぼく」がツッコミを入れてますが、円の定義に反していますから。ここでは信仰のために不条理を飲み込むことが出来るかどうか、「ぼく」がテストされています。

 もし神様がいるなら、なぜ敬虔な人が不幸な目に逢い、怠惰で傲慢な人がのさばっているのか。なぜ戦争は無くならないのか。なぜ世界は少しも良くならないのか。ロジックで考えると、矛盾だらけですよね。
 そうした疑問を超越して、はじめて神を信じることが出来るのですが、「ぼく」は結局そこに辿り着くことが出来ません。

 この「ぼく」のような信仰を持てない人は、日本にたくさんいるわけです。拠り所がないからこそ、実存的不安に陥りやすい。だから「クリーム」は非常に「自分ごと」として読むことが出来ます。そして、どうやってこの不安を乗り越えるかについて、「ぼく」はこのように結論づけます。

たとえば心から人を愛したり、何かに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰(あるいは信仰に似たもの)を見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け容れることになるのではないかーーそれはあくまでぼくの漠然とした推論に過ぎないわけだけれど。

 頭で考えるのではなく、心が深く突き動かされた時、人はそれぞれに「生きる意味」を見出すことが出来るのではないか。そのように解釈しました。

 「好きだから書く」の中には、読者に訴えたい社会的テーマがあってもいいし、無くてもいい。必ずしもどちらかである必要性はない。めちゃくちゃ当たり前なんですけど、あえてエクスキューズしている感じを受けます。

【読み手と書き手のギャップに意識的な本作】


 『一人称単数』は、「読み手は文章を自由に解釈していいんだ」という考え方を肯定した上で、「でも別にこっちはそれを前提に書いているわけでもないよ」と釘をさしてもいます。
 読み手と書き手の間の「ギャップ」を浮かび上がらせ、思い込みや決めつけに縛られていたことにハッと気づかされるーそれを楽しむ本なのです。

 「謝肉祭(Carnaval)」は、「僕」の飲み仲間で、容姿が醜い中年女性が実は詐欺グループの主犯だったという話です。
 見た目がブスで完全に対象外だったがゆえに、「僕」は彼女はアカデミックな話が出来る女友達として付き合い、また下心ではなく教養を高めるために異性と接している自分に酔っていました。(非常に失礼な話ですが)
 この短編は、相手を「こういうヤツ」と決めつけてしまうことの危険性を上手く描いています。多くの場合、相手が「こういうヤツ」なのではなく、相手が「こういうヤツ」だと自分にとって都合が良いというだけなのかもしれません。

 そして「品川猿の告白」は...すみません。この話だけは、正直全くわかりませんでした笑。自分の中ではまだ言語化出来ません。だけどそれで良いと思っています。「なんか分からないけど面白い」という感覚に出会えることこそが、本を読む喜びだったりするわけで。
 いずれにせよ本作は分かり易い部類に入ると思いますし、ここから村上さんの作品に戻ることで、また発見することもある気がします。去年の年末、村上さんが強い言葉で政治を批判した時に驚いた人も多いと思いますが、本作を読むとなんとなくその理由も分かったり分からなかったり笑?


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