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卒論・修論のテーマの選び方/時代性との距離感

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

ぼくは修士論文の準備をしていますし、周囲の学部生は卒業論文の準備をしています。基本的に、指導教員が「いいよ」「仕方ないね」といえば、卒業論文のテーマ、修士論文のテーマは自由です。しかし、「テーマは自由だああ!!」と言われても、ぎゃくに困るわけで。

特定の先生に言われたわけではないが、ぼくが何となく複数の先生たちのしゃべりを聞いて思った、卒論のテーマ選定のコツを書いてみようと思います。キーワードは、「時代性」です。
なぜ2020年代前半に、ぼくたち・わたしたちは、そのテーマで卒業論文・修士論文を書くのか。これが「時代性」です。

「ぼく・わたしがやりたいのは、いつの時代にも通用するテーマだ、普遍的な正しさを求めているのだ」と感じる(言いたい)学生がいるだろう。多くの場合、それは傲慢です。そんなテーマに、にわかに到達できるわけがない。もしくは、「時代の子」として現代を生きている自分に対する、振り返り(内省)が足りない。生まれてこのかた、どのような人との出会い、情報との接点を持ってきましたか。木の股から生まれて、真空の培養器のなかで、宇宙空間を漂ってきましたか。

「時代に左右されるなんて、浅はかな人間のやることだ。学問は、政治や時事評論の道具ではない」という気概もあるでしょう。「流行や空気に押し切られたくない」もしくは、「役に立つ、あるいは、カネになる、などの商売っ気に接続されてたまるか」と思うかも知れない。
その意気やよし。
しかし、まったく現代と繋がりのない研究は、読むひとが(少なくとも現代において)いない。やる意味があるのか。あなたに単位を出すためにシゴトとして読んでいる先生ですら、コーヒーをがぶ飲みし、30秒ごとに飽きながら読んでいるか、ぱーっと流し見してますよ。

かといって、「現代のこの問題に立ち向かうための研究だ」「私の政治的な主張を支えるための研究だ」というのは、射程がせまい。その問題は、卒業論文を書いている数ヶ月のあいだに陳腐化するかも知れない。自分の意見が、書いているうちに変わるかも知れない。ある戦争に触発されたとして、書いているうちに戦闘が収束し、マスコミが発信する攻守・正義(の物語)が逆転したら??
学問的な手続とは、(その定義において)客観性が求められる。強すぎる思い、価値観を託するには、相性が悪い。よほど学問的手続に慣れたひとならば本心をカムフラージュができるが、学生さんの場合、うまくできるはずがない。
そもそもからして、学問は、意見を主張するための道具ではない。習いごとのサッカー教室で、絵画を描き上げてどうするのか。

もっとテクニカルに、先行研究の不備を見つけたとか、新しいデータを入手したとかで、「プロとして」論文を生産する学生もいる。それは、博士課程に進み、論文の本数を稼ぐときでいいでしょう。
研究の根幹(研究者としての自分のキャラ)がないにも係わらず、成果(に見えるもの)から逆算してテーマ選択をすると、学部生・修士課程は、すぐに息切れします。
それに先行研究は、学部生がひっくり返せるほど疎かではない。学生さんにとって不備に見えても、それは読み手の問題であって、不備ではないことが多い。新しく出てきたデータや出土物は、より早くに入手したプロが、より切れ味するどく調理ずみだろう。

じゃあ、どうしたらよいか。
「完成した論文を分析すると、著者の現代的な問題関心が浮かび上がる」程度の距離感で、時代性を織り込むのがよいだろう。
自分はこういう時代背景のもとに育った人間であり、現在をこのような時代と認識し、あれについては親和的だが、あの問題については趨勢に違和感がある(ような気がする)……。
ここまで内省し、明確に言語化した上で(信頼できる友人に聞いてもらうといいはずです)、むき出しの意見や価値観を、一旦は抽象化する、あるいは弱毒化する。
そののち、所属しているゼミの題材を選び、先生の指導に基づいて研究・論文化のノウハウを訓練。完成した論文は、ゼミにふさわしい題材であり、論証のテクニックとして(不慣れなりに)破綻が少ない。

日頃からコミュニケーションを取っている先生には、「ああ!、この学生は、こういう理由でこの題材を選び、こういう価値観の持主なんだな。だからこんなふうになったのね。なるほどね(困ったもんだ)」と、薄々気づいてもらえる。
しかし面識がないひとには、無味乾燥で素っ気ない、科学的な論証にしか見えない。「悪くはないけど、だから何?」ぐらいの完成度になれば、上出来でしょう。後年、ほかの発信と照らし合わせ、当人のバックグラウンドを知って分析することにより、「ああ、なるほど。そういうことだったか」と納得されるぐらいに、謎を持たせる。

煮え切らないですけど、この均衡、もしくは「自我の出し入れ」が、スリリングに論文を書くためのコツだと思います。
自分から完全に切断され、すべての時代のすべての人間が対象読者である論文は、かえって読者がゼロ人であるから、書くべきではない。自分ですら、書いていてイヤになるだろう。かといって、随筆やポエム、政治声明やお説教になってしまえば、そんなものは論文ではない。などと考えています。

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