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感想『シビル・ウォー/アメリカ最後の日』

佐藤大朗(ひろお)です。早稲田の大学院生(三国志の研究)です。20年弱続けた会社員生活を辞めて、アラフォーの無職、大学院生です。

今回の記事はネタバレありです。

『シビル・ウォー/アメリカ最後の日』がamazonプライムで配信されたので見ました。「現代アメリカで内戦が起きたら?」という話だと事前に聞きかじっていたが、内戦はメインではない。ぼくにはアメリカの内戦は添え物のオマケにしか見えなかった。
報道カメラマンの話、ジャーナリストの話がメインです。この映画は、別の時代・別の国でも同じ話ができます。「現代アメリカ」というのは、関心を引いて観客を呼ぶための舞台装置か。

映画では、ホワイトハウスで戦闘します。これは、ゴジラ映画で東京駅や国会議事堂が出てきたら盛り上がるのと同じ賑やかしだったとぼくは思います。賑やかなら映画として楽しいからいいのですが。

報道カメラマンは、戦場に自ら出張って、ときには銃口を突きつけられ、銃弾を受けて死ぬこともあるが、戦場を写真におさめ続ける。

カメラ、写真が映画のなかで「小道具」になっていますが、これは「ペン」でも同じ。「ペン」だと映像バエしないので「カメラ」が小道具に選ばれたのは納得です。「カメラ」を小道具にすれば、作中人物が撮った写真を映画中にそのまま見せられるから。
「カメラ」でも「ペン」でも何でもいいですが、できごとを記録する、ということはどういうことなのか?という問いの映画でした。

『シビル・ウォー』と春秋学

ここからは、ぼくが今週、大学院で研究報告をした前近代中国の「春秋学」に引きつけて理解してみたい。

「春秋学」とは何か。「春秋」という歴史記録に関する学問です。「春秋・戦国時代」の「春秋」です。「春秋」という名前の本の記録された時代が「春秋時代」です。

春秋時代は、周王朝の権威が弱まって、戦争や権力者殺しが大量に起きた時代です。シビル・ウォー(内戦)と似ています。
戦争と権力者殺しを、どのように記録するか。これが「春秋学」。
2020年代アメリカで、自動車に乗り、カメラを首から提げていた映画『シビル・ウォー』の人たちと同じ問題群に身を置きます。

完全なる他者、憎むべき外敵(たとえばタコ型宇宙人)との戦いなら、記録の方法に躊躇はありません。ひたすら外敵を悪く書けばよいので。しかし、ことに内戦になると、記録について躊躇が生まれます。タコ型宇宙人を殺した数を10倍に盛ればいいのです(国淵伝)。

春秋時代は紀元前500年なので、カメラはないですけど、「ありのままに記録すべき」という価値観があり、これを「直書」と言います。
写真は「真実を写す」なんて言いますけど、「直書」が目指すのもまた、写真と同じです。「直書」は「直く(なおく=正しく)書く」だから、「写真」と同義語と言えましょう。

では、どのように内戦を記録すれば、真実を写した「写真」、正しく書いた「直書」になるのか。

映画『シビル・ウォー』のジャーナリストの目的は、激戦地のホワイトハウスに赴いて、権力者(大統領)にインタビューすることです。
大統領は、テレビのなかだけで、「勝った勝った」「わが国は偉大だ」と言っているけれど、実際の戦況は、ホワイトハウスが陥落寸前。大統領は、1年以上もジャーナリストの取材をシャットアウトしている。

ぼくは当初、この映画の主題がジャーナリズムだと気づかなかった。「戦争を描く」と聞きかじっていたので、軍人や市民兵がメインかと。なんなら、「早くジャーナリストがフェードアウトしないかな。脇役を長く映しすぎだ」と退屈に思っていた。
「敗戦まぎわの大統領をインタビューしよう」という序盤の話も、ギャグだと思ったんです。大統領のインタビューと言っても、揚げ足を取ったり、髪型やネクタイをバカにするんだろうな、くらいに思っていた。

作中では、ぼくの先入観に反し、主人公の記者たちが大マジで(大いに本気で)大統領のインタビューをとりにいって、命の危険を顧みず、大統領の最期の写真を撮ろうとしている。

なぜ彼らは、最大の激戦地、陥落する間際のホワイトハウスで、大統領を探すのか。インタビューと撮影をしたいのか。
大統領にインタビューすることで、内戦の責任の所在(大統領のせいで内乱が起きた)を明確にし、そのインタビューの様子をカメラに収めよう、というのが映画中の目的なのでした。

「アメリカ最後の日の決定的瞬間をカメラに収めよう」という使命感あるいは興味本位、ジャーナリストとしての名誉欲なのかも知れない。「責任に所在を明らかにしようとした」という解釈は特殊であり、中国学に引きつけ過ぎかも知れない。

「写真」にせよ「直書」にせよ、起きたできごとをすべて記録するのは不可能です。写真をとるひと、記録をとるひと、インタビューをするひとは、みずからの判断で特定の切り取り方をして、事件の責任の所在をあきらかにする。これはまさに春秋学なんです。
大統領の最期の写真をもって「この戦争の1枚」とするのは、この戦争の責任は大統領にある、というものの見方の提示です。

たとえば、王様殺しが起こったとする。記録者が「大臣Aが王様を殺した」と書き記す。これに対し、大臣Aが抗議します。「私は実行犯でもないし、殺害を指示したわけでもない。殺害計画すら知らなかった」と。たとえこれが事実であったとしても、記録者が、「もしもAさんが大臣としての職責を果たしていれば、王様殺しが起きなかった」と判断すれば、「大臣Aが王様を殺した」と端的に記録する。これぞ春秋学。

写真の撮り方、記録の仕方(切り取り方)には恣意性がつきものです。切り取られたものは真実じゃない、というのは当たり前すぎます。今さらな指摘です。
じゃあ、360度カメラを1立法メートルごとに無限個数設置して、膨大な映像を残せばそれが正しい真実なのか?まさかまさか。

作中のジャーナリストは、「この内戦は大統領の責任だ」という仮説があるから、それを世に示すため、命を危険にさらしてホワイトハウスに、攻略軍とともに突撃します。
攻略軍からみれば、攻撃のジャマです(実際にジャマがられている場面がある)。報道関係者のふりをして、もしも武装した人間だったら、現実的な脅威です。攻略軍よりも先に大統領を見つけてインタビューを採るためには、攻略軍よりも前に出て、ホワイトハウスの深奥部に突き進む必要があります。いくら「報道」のベストを着ていても、両軍から撃たれる危険があります。実際にジャーナリストたちは撃たれて死にます。

事後的にyoutube動画で解説?を見て、「中立な観察者である報道関係者を撃つなんてひどい」みたいな話を聞きましたが、あの緊迫した状況でぼくが兵士ならば、味方以外の動くものを撃たないほうが難しい。

「内戦の責任は大統領にある」という仮説を持って、仮説を示すためにインタビューや写真撮影を強行した結果、みずからの争いに巻き込まれて命を落とす。これもまた、春秋学に似ています。

上記の例で「Aが王様を殺した」と書いた結果、その記録者は、大臣Aに睨まれて殺される。これぞ良き歴史家とされます。命を賭してまで、「Aが王様を殺した」という説を明らかにした、という美談になる。

『シビル・ウォー』は、善玉と悪玉の二項対立のようです。
「アメリカをダメにした、うそつきで権力の亡者の大統領(悪玉)」と「メンタルを苛まれ、命の犠牲を払いながら、保身に走る大統領の本当の情けないすがたを暴いたジャーナリスト(善玉)」という二項対立です。

しかし、作中の「内戦の責任は、大統領にある!」というジャーナリストの仮説は、どこまで合っていたのでしょうか。

大統領は、国民によって選ばれたひとです。このような大統領が出てくる土壌が最初からなかったのか。大統領ひとりが邪悪なので、内戦が起きたんですかね。
内戦の経緯は、映画では意図的にはぶかれています。アメリカでは現実に飛び火しかねないし、外国人に対しては説明くさい上に伝わらない。大統領=悪は、とりあえずは疑わない約束にて主人公の目線で話が進みます。この説明不足を本映画の欠点とする感想もあるようですが、ぼくはアメリカ・マニアではないので、気になりませんでした。

銃を向けられたとき命乞いをした大統領は、情けない小人物なのか。
大統領から、命乞いの言葉を引き出した。ジャーナリストは、たくさんの仲間を失った取材旅行(戦地への突撃)の成果を得られた、という結果になりましたが、それで良かったんですか。
ぼくたち視聴者は、命こそ銃弾に晒してませんが、2時間も集中して映画を見て、大統領の命乞いの一言を聞けて満足でしたか。

日常レベルに置き換えると、どんなに偉大な経営者でも、虫歯が痛いときは痛いでしょう。虫歯を痛がったから、「個人的な事情を優先する、器量が小さい人物だった」ということになるのか。

映画はジャーナリスト目線で描かれて、ジャーナリズム賛歌みたいになってるんですが、ぼくはずっともやもやしてました。

記録を残したサイドの記録ばかりが残り、記録者の生きざままでもが褒め称えられて、仮説が一人歩きする。記録されなかった側の事情は、もはや想像するしかなくなってしまう。
写真や記録があるほうは真実・直書であり、「火の無いところに煙は」論法で、悪者にされる。写真や記録から漏れたほうは、証拠がないから、弁護しようにも、「それってあなたの感想ですよね」になる。

春秋学で、記録者が「大臣Aが王様を殺した」と書いたとする。大臣Aは、殺害の実行犯でも指示者・計画者でもないのに、記録者によって責任を帰属させられる。しかし、本当に大臣Aがそんなに悪かったのか。大臣Aの責任と言えるのか?決めつけでは?
春秋学的な「美談」を読んでいると、ずっともやもやします。

『シビル・ウォー』では、カメラマンが戦場で銃弾のなかを走り回ることで、高揚していく様子が描かれています。決め打ちした仮説(大統領が悪い)を示すという正義が、自己目的化して暴走していくんです。
カメラを構えて、攻略軍といっしょにホワイトハウスを家捜しするのは、もうゲーム感覚です。
生き残るための身体反応として興奮状態になる……ということかも知れないが、そもそも、そんな(生命保護の観点からは)無謀な行動を起こすのは、もはや「仮説の暴走」に見えます。

春秋学で、価値判断をまじえて「大臣Aが王様を殺した」と記録したものは、自分の信じた仮説(責任の所在は大臣Aだ)に殉じることに、高揚感を覚えていないだろうか。筆誅を加えることで悦に入っていないのか。かがみを見て深呼吸しても、同じことが書けるのか。きわどい仮説に殉じるひとを、手放しに正義だとほめるのは無責任ではないか。

ジャーナリズムは崇高で、春秋学は義を示す学問だ。本当にそうなのか。という懐義が、ぼくの『シビル・ウォー』の感想でした。

作中でジャーナリストたちは、自分の親兄弟について、戦場から遠い田舎に移り住んで、戦争を見て見ぬふりをしていることを批判していました。でもぼくが『シビル・ウォー』の世界にいたら、きっと田舎に引っ込みます。ぼくがそういう人間だから、映画で主人公とされ、おもに賛美されているジャーナリストたちが「死んだとしても自業自得のひとたち」「極端な仮説に飛びつくひと」「戦場のじゃまもの」にしか見えませんでした。
ちなみに古代中国では(でも?)記録者、歴史官は、いい死に方をしません。記録することはそれほど恐い。手放しでの賛美は危ういと思います。

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