見落としていた南九州への航路/鉄砲伝来と懐良親王

佐藤です。松尾千歳『秀吉を討て/薩摩・明・家康の密約』を読んでます。

ぼくは、鉄砲が種子島に伝来し、紀州根来寺、堺商人に伝わるって、経路がやや謎だと思ってました。中国地方をすっ飛ばして、なぜなの?と。種子島も、紀州も、点と点。堺商人が有力なのは聞き知っているけれど、なんか南に逸れてないか?と。関西国際空港でもない限り、堺よりは、大阪市あたりで貿易しそうなものなのに?

室町時代、中国大陸との航路は2つありました。
①瀬戸内海・兵庫津から博多商人は大内・山名氏の勢力圏なので、②室町幕府・細川氏は堺から出航し、土佐沖を抜け、南九州の島津を抜けて中国へ出ていた。
鉄砲は②の経路なんですね。

熊本の菊池氏のことを調べたときも、吉野(奈良)の後醍醐天皇が、懐良親王を送り出し、土佐、鹿児島、熊本と回り込み、大宰府を目指すって動きがありましたが、「搦手から回り込んで、苦労してるな」と思っちゃったんです。ほぼ漂流じゃないのかと。
でもそれは、大阪、神戸、博多を中心と思い込んでいるからで、②の主要な交易路に乗った、常識的な戦略と言えるのかもです。

日本史、日本地図はよく知っているはずなのに、ぜんぜん分かってなかったです。すごいな。

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