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【博士課程】研究論文を書くことを日常のルーチン化する

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。

博士課程の2ヶ月が経ちました

ぼくは早稲田大学 大学院 文学研究科の博士課程(博士後期課程)の1年生です。いわゆる「博士課程」の学生になり、2ヶ月がたちました。
博士課程の1年生は、
・修士論文で最低限の成果が出た
・修士論文を踏まえ、博士論文の構想をねる
という時期にあたるでしょう。
教授ごとに指導方針が異なるでしょうが、大枠はこの通りのはず。

ぼくは博士課程の春学期(1学期、上半期)を「インプット時期」「充電期間」と位置づけ、修士課程のときよりもインプット偏重で、ゆったりと本を読んでいます。
授業は休まず出席しているけれども、自分の研究については「春休みの延長」に近い。

博士課程1年生の4月から5月は、学振(数百万円規模、研究資金の申請)を書きます。
なぜそれを研究するのか、どのような「問い」を立てるのか、既存の研究のなかでどのように位置づけられるのか、何をどこまでやるのか、オリジナリティはどこでいかようにして発揮できるのか?……??
これら「大きな話」に思考を持って行かれるので、より目先の研究に対して、手が動かない時期になる。手をこまねいてしまう。

充電期間にあることは自分の先生(教授)に雑談レベルでは伝えていたんですけど、そろそろ「ゆっくりし過ぎじゃないか?」というコメントを頂いて、夏休み中に、対外的な研究発表の機会をぶち込まれました。

現在の感じ方ですと、
研究論文を書くことは非日常であり、機械的に生み出されるものではない。修士論文を書くときに2年かけたように、「満を持して、自らの存在をかけて書くものだ」という気持ちがあります。

早くもインプットを中断して書き始める時期なのか??まだ入学して2ヶ月半だけど……。生半可な論文を量産して、自分の研究の射程を短くするのも不本意だ、という気持ちがあります。

会社の業務でも同じですが、短期的・日常的なルーチン業務、お決まりで小刻みに締め切りがくる仕事と、中長期的に価値やオリジナリティを出す仕事は、なかなか同時にできません。

論文をルーチンに組み込む

ぼくの先生は、「博士課程の学生は、1年間で2本ずつ論文を完成させるとよい」という指導方針です。
1年に2本書けば、博士課程の3年間で6本になる。6本あれば、博士論文の中心的な内容を占めることができるだろう、という見通しです。

「1年に2本」が目標ならば、論文は非日常です。

年に2回しかしないことって、ルーチンとは呼べませんよね。長期連休の「盆と正月」に帰省するならば、これが年に2回(ゴールデンウィークを除く)。帰省して家族や親戚に再会することって、非日常ですよね。

論文を書くことが非日常ならば、「たまたま素晴らしいアイディアや発見があったときだけ論文を書く」となるでしょう。
「重要だが緊急ではない」のカテゴリに入る。
※修士課程の学生はこれで良かった

会社勤めのとき日々の雑務に忙殺され、いつのまにか年月が過ぎていた、、と同じだ。日々の業務は多く、別にサボっているわけじゃないのに、それ以外のことができない。次から次へと、「緊急かつ重要」なことがやってくる。その瞬間ごとには、ベストを尽くしているのだ。
「緊急かつ重要」を中断して、「緊急ではないが重要」に時間とメンタルを割り当てることは難しい。

そこで、発想の転換です。
博士課程の学生は、論文を書くことをルーチンに組み込む。日常のなんやかんやで継続している作業のなかに、「論文を書く」を組み込む。

毎週の授業の予習復習、習慣化した読書、ぼくの場合だったらこのnoteを書くのもそうですが、「やってて当たり前」「毎日じゃなくてもよいが、数日おきには手を動かしている」ことのなかに、
新たに「1本の論文を書いている」というタスクを組み込めば、博士課程の期間中、書ける論文の数が多くなるのではないか。

パソコンにたとえるなら、つねにウインドウを最前面に表示して作業しているわけではないが(メールを返すなどの雑務は避けられない)、タスクバーには立ち上がりっぱなしの論文が最低1本以上ある、という感じ。バックグラウンドではいつでも動いており、操作1回ですぐに再開できる。

適当に見積もりますけど、日常的に手を動かしていれば、研究論文を年間4本は確実に書ける!!

論文を日常的に書き続けていることを「緊急かつ重要」に含める。
「満を持して論文に着手する」というメンタリティは、論文作成の緊急度を見誤っているのではないか?ということに気がついた。

先生のいう「年に2本」は結果論でしかない。
「4本~6本書いたところ、対外的に発表できた成果が2本残った」というのが、実際のところだろう。捉え方によっては、ミスリードです。「年に2本書けばよい」というものではない。
反対に、「年2本も書けないよ」という声もありそうですが、、ぼくのなかでの「当たり前」のラインが上方修正されたようで、「私の目標、高すぎ!」とは思わなくなった。

いやいや、論文はそんな簡単じゃないよとか、論文を書くという行為の神聖性が損なわれる、天啓のようなアイディアがないのに手を動かして意味があるのか?日常に埋没させたらオリジナリティが獲得し発揮できるのか?研究の射程が短くなり、現状の能力でできる範囲に限られ、小さくまとまるのではないか?インプットが不足するのではないか?とか、
いろんな反論は想定できるでしょう。……むしろぼくのこの2ヶ月間が、ここに掲げた「反論の世界の住人」でしたが、

ポジティブな側面からは、
・書くことでインプットの精度が高まる
・書きながら論述が上手くなる

ネガティブな側面からは、
・長時間寝かせても、大したものができない
・下手の考え、休むに似たり

という割り切りができるでしょう。
これは博士課程の学生、すなわち、一度は修士論文を書き上げて、よくも悪くも自分の限界を見せつけられたものだから言えることはないか。

「論文は神聖なもの」「論文は優秀な人が書くものだ」と言わんばかりに畏まって構えていたけれど、自分の修士論文は泥臭く、データや先行研究に引き回されながら書き上げるしかなかった。締め切りの足音に怯えて半泣きになったけれど、締め切りがあるから完成できた。締め切りがなければ、完成できなかった。
ツラかったけれど、ツラいことばかりじゃなく、書きながら視野が広がったし、書き終わって初めて見えてくるものがあった。論文を書き終える前に比べて、1ミリぐらいは「何者か」になった。

それでも神聖性は残る

日常的な作業、ルーチンワークとして論文を書き続けていく。悪い言い方をすれば、書き飛ばしていく。ご飯を食べて、歯を磨いて、風呂に入って、外出するときは靴を履いて、用事があれば電車に乗って、、みたいな「当たり前」のなかに、論文を書くという作業を落とし込む。

大学教員の会話を聞いていると、「原稿を依頼された。いついつ(たいてい1~2週間後)まで、1本書かないといけない」「どこどこで発表を依頼されたから、1本作らないと」って感じで、まさにルーチンワークの一部なんですよ。この感覚に近づいていくイメージ。

ルーチンワーク化すると、退屈になるのか。
そうとも限らないでしょう。
研究に対する畏怖とか、神聖性・神秘性は残ると思います。

・複数の論文を通じて、明らかにしたいこと
 一連の研究を通じて、自分がたどり着きたいこと
・研究という行為を通じて、自分がやりたいこと
 研究と何か??人間にとって研究するとは??

これらは、日常のなかに埋没しない。
1つ1つの論文は、感情がまったく波立たない(嬉しくもないが、辛くもない)タスクの積み重ねだけど、積み重ねを通じて見えてくることがあるのだろう。※見えてこなかったら辞めたらいいだろう

襟を正して非日常の「神棚」に上げておくのは、研究をめぐる大きな話題であって、1本1本の論文は、日常・俗のなかに降りてきてもらっても差し支えがないのではないか。
というカテゴリの移動。

目先の1本1本を書くことは日常の一部なので、それによって新たな領域の読書、見識やテーマを広げる情報収集を中断する必要もない。中断するほどのことでもない。だって日常なんだから。
……という境地を見据えたらよいのではないか。
これなら、矛盾したことを同時にやる、という苦しさはない。

15年の会社員生活で、うまくいっているときは、わりとこの(他人から見れば)「いつその時間を作っているの?」という動きができた。

まとめるなら、「2年~3年で論文を1本書く修士課程から、2ヶ月~3ヶ月で論文を1本書く博士課程へ」となるでしょう。気負うほどのことではないんですよ。なぜなら、修士論文をもう書き終え、審査され、最低限の能力や適性は、先生たちに評価を受けているわけなので。

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