『緑色から何を感じるか』 〜 自然の恐ろしさ
ルール
自分の言葉で書くこと
記事を書いているときに何も調べてはいけない
外部の情報を引用してはならない
賢いふりをしない
書いた後に大幅に修正しない
誤字脱字の修正はOK
従って事実と異なることが書いてあります。創作としてお楽しみください。
緑色
葉っぱの色。もっといえば葉緑体の色。
太陽光から緑付近の波長以外を吸収した結果、僕の目に届く光のこと。
カラーコード(?)で#00ff00とかの色。
単に緑色といっても、単色でべったり塗られたものから、葉っぱのようなグラデーションをもったものまで色々あるな。一旦葉っぱを見たときのイメージを考えて、それを抽象化して緑そのもののイメージを考えていくことにする。
葉っぱ
「自然そのもの、風で揺れる姿、実り」
とかかなあ。あとは少し「背景」っていうイメージもあるかも。主役ではない感じ。あくまで花とか実が主役かも。少し香りも感じるかな。葉っぱの見た目から感じることって一言で表せない複雑さがある気がする。
葉っぱ一つに注目すると前景で生きている感じがするけど、少しひいてみると、途端に背景になる。
生きている上で、自然は背景や前提であり、でもあるときにそれは前景や結果になる。状態が重なっているなあ。でも考えを前に進めたい。この複雑さを文章にしてみたい。
葉っぱの複雑さ
ちょっと視点を変えて考えると、葉っぱそれ自体は点なんだけど、それがたくさん集まると線(面)として捉えてしまうのかな。点は前景、面は背景になっちゃう。
見えている数の問題な気がしてきた。どうしよう。なんとなく一枚にしよう。
一枚の葉っぱにしたとき、複雑さは無くなるのだろうか。いや、一枚の葉っぱの中にも、たくさんのしわがあって、枝分かれした変な線があって、たくさんの葉緑体がある。葉っぱはよく見ると一様な緑じゃない。というか茶色の時も赤色のときもある。
失敗
なんだかこのアプローチは失敗な気がする。一様な緑を考えるために持ち出すものではないな。でも一様な緑から感じ取れるイメージを考えて何になるのだろう。一様な緑ってエッジケースじゃないか?
葉っぱの方がマジョリティじゃないか?
と、ここまで書いたところで最初に書いた文をみたわけですが、最初から葉っぱにグラデーションがあることを考慮してましたね。はい。この文章は時間をおいて書いてます。出勤中と退勤中に書いてます。最初の方針のとおり、むりやりこの複雑さを抽象化してみて終わりにします。
浅はかな緑
緑を見たときに、もしかしたら、上に書いたような自然の複雑さをどことなく感じるのかもしれない。前景にも背景にもなる色。生命を感じる色。日常を感じる色。本当にそうなのかな?いろいろな考慮が足りない気がする。僕の語る緑は陳腐だなあ。でも自分を卑下して終わるのは良くない。自分が悪いのではない。緑が複雑すぎるのだ。
結論
自然って怖いね。
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