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明るくないイタリアンで絶品を食らう:豪徳寺の謎のエノテカ

 乾杯のグラスを合わせる澄んだ音がやんだ後に電車の過ぎ去る音が聞こえた。

 高級住宅地にあるのだが、なぜか場末感のある不思議なビストロ。それだけに親しみやすく何度も訪れたくなるお店。でも、一見さんのハードルはかなり高い。2階にある上に、急な階段へ続く入り口には料理のお勧めだけ。連れてきてもらわないと、なかなか行けない店。

 少しの揺れと共に、2階の窓からは世田谷線の電車が見えた。西島三重子の池上線が頭の中で響き渡りながらも、ここは世田谷線。昭和のちんちん電車と言われた面影はないスマートなトラムに見とれながら、何気なく、隣を見た。暗い店内で、似つかわしくない明るい笑顔は、「ラムの肉はヘルシー」と笑って食べる麻子。

 こんなにあどけない女子大生がなぜ、ここにいるのか。理由を考えてもしょうがない。

 この店は、店主のハスキーボイスに、親近感が沸くのか、意外にオジサンの利用が多い。2階に上がる階段の向うの薄暗い場末のスナックに近い雰囲気に引き付けられるのか。だが、なかなかどうして、味も本格的なところが、食通のオジサンを引き付けるのか。
 黒板に書かれたメニューはどれも美味しいが、たまに入る北海道産のラムがお勧め。目の前で、肉を切り、いったん奥に隠れて焼いてくれる。そうこうしているうちに、美味しい匂いが、カウンターと並行に漂ってくる。なんか、気を持たせて、冷たくされて、優しい一言で大好きになる、そうツンデレ・バルだ。もちろん、出来上がりは、美味しく仕上がっている。手ごろなつまみも豊富だ。パスタもちゃんと揃えてくれる。冬は牡蠣も出してくれる。洋風おでんも、渋い。ワインはイタリアを中心に美味しいグラスが提供されるが、まず、最初はイタリアビールのアストロナズーロで乾杯だ。

 知り合いのオリジナル・ツアーに誘われてアメリカの田舎町に旅行に行った時に知り合ったのが麻子だった。旅行中には盛り上がるが、祭りが終われば、その時の熱狂などすぐに忘れ去られる、たぶん、そうなるはずだったが、1年たった今でも時々会っている。写真が色あせるよりも早く(当時はフィルムの時代だった)、記憶が薄れていくのは世の常だから、今、隣りにいる麻子はきっと幻かもしれない。

屈託なく笑う麻子。冷たくされるほどではないが、毎日、会わないといられないほどではない。でも、一回りも違う、麻子だからこそ、魔法が解けないうちに、大好きと言われてみたい。

 そんなことを思いながら、今日も食事を楽しんで、そろそろ、会計の時間だ。お腹いっぱいになりながらも、値段はリーズナブル。
 「美味しかった、ご馳走サマンサ!」
 と昭和のギャグも使えるようになった麻子。普段、私に鍛えられている。
 店を出るために急な階段を下り始めた時に、
 「気を付けて」
 と声をかけ、自然に手を取り合った。
地上に降りたその時に、「キャッ」と小さな叫び声をあげて、階段を踏み外した麻子が、文字通り、天から降ってきたようだった。それを、かっこよく受け止めるはずだった私だが、麻子を抱えたまま、無様にも、尻もちをついてしまった。
 地面に這いつくばる私に対して、倒れはしなかったが、中腰の麻子。
 「ごめん、もっと鍛えて今度はしっかり受け止めるよ」
といった私に、
 「よろしくお願いします」といって倒れ掛かってきた麻子。
 ちょっと幸せな気分のまま、路上に倒れ込んだ私の腰から、不気味な音が聞こえた。


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