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エレナ婦人の教え2 エリック優雅なる生活008 第三話 『情熱の鐘』

くそう、いまに見てろ!
なにかに虐げられたとき、そう想ったことがないだろうか。自分のやっていることをことごとく否定され、褒めてもらえなかったとしたら……。

幼少の頃の自分はまさにそうだった。どんなにがんばっても認めてはくれない。オール5に近い点数を取っても「まぁまぁやね」。父は自分の子どもを否定こそすれ、素直に褒めることはなかった。母は天然でそのまま同意する人だったから、子どもの頃の僕(ヒロ)は屈折しないほうが難しかった。

だが、劣等感やコンプレックスをバネに大成した人は大勢いる。いや、逆に何もない人より悩みが深かったぶん気づきも深いかも。名優、一流スター、芸術家と呼ばれる人は何かしらコンプレックスを持っている。

自身のコンプレックスを乗り越え、父を看取り、笑顔で送り出した。そのときようやく自分は父を許し、父を乗り越えたと気づいた。

業によってどうしようもなく否定する父から亡くなる前日「もう手立てはないんか」と筆談で語り「ごめん。もう点滴が入らんとよ」と言うと悟ったようにあの、決して負けを認めず屈し無かった父がポツリとひと言。「諦めが肝心。諦めんといかんね。ありがとう」と言ってきた。そのとき父とのことに格闘し、乗り越えてきた自分が救われた気がした。

さてエリックさんの物語でヒロはどう振る舞うだろう。自分とは正反対のいけすかない男ケントが登場。執拗に嫌味を言ってくる。翻弄されるヒロ。エドじいさんはお城へでの肝試しへと誘う。さぁ続きは……

◆前回の話は以下からどうぞ↓

第21章 怒り

その日の夜はなかなか寝付けなかった。寝返りを打ちながら気づいたときには4時を少し回っていた。まだあたりは薄暗かった。眠れず目が冴えてしまった僕は、重い体のままベッドから起き上がった。ソファに座って日記を書いてみたり、ベッドに戻って本を読んでみたりもした。それでも時間は一向に進んでくれなかった。

6時を過ぎた頃、窓から朝日が射してきた。日差しは伸びて影を長く映し出している。まだ起きたくはなかったが、仕方なく眠い目をこすり、パジャマ姿のままリビングルームに出て行った。

エリックさんはすでに着替えリビングで紅茶を飲んでいた。ちょうど朝食のブレッドを食べ終えたところだった。

「おはよう。よく眠れたかな」

「えぇ、まぁ」

「その顔は眠れなかったって顔だね。昨日はいろいろあったからヒロくんも何かと落ち着かなかっただろう。当然海の向こうとは勝手も違う。だがそれも一時の辛抱だ」

「……というと?」

「ここに来て間もないうちは、やることなすことすべてが新鮮だ。言ってみればそれは結婚したての夫婦みたいなものだ。しかしそんな気持ちも長くは続かない。ここでの暮らしも同じこと。じきに慣れる。

さて今日はお金の話をしよう。私が話すのもいいが、ゲストを呼ぶことにした。主にEUを中心に株や債権の売買の仕事をしているケントくんだ」

「はい……」

小さくうなづいてはみたものの、いまひとつ気乗りしなかった。金を横流しして儲けるヤツの話なんて聴く気がしない。そんなの時間の無駄だ。

ひと通りの身仕度を終え、テーブルに着いた。エリックさんの工場で焼いたというできたてのパンをひとつまみ手に取り、ポンと口に放り投げた。すると次第に口の中は香ばしさで一杯になった。

今日もエリックさんの運転で出かけるという。この日の車はアウディA4カブリオレ。2ドアオープンの車だが4人でも十分に乗れる。頑丈なビニールの電動ほろを外し、外の風を浴びながら走るのは爽快だ。僕たちは待ち合わせの場所、フレンチカフェ『ヴォンヌ』へと向かった。

店に着くと、レイラとスーツ姿の男が並んで座っていた。男はタバコを吹かしながら談笑している。ベージュのスーツをスマートに着こなし、ピカピカに磨かれたブラウンの靴を履いていた。僕にベージュの服は似合わないし靴は薄汚れたスニーカー、こんな格好じゃ肩身が狭い。

店の時計は11時より少し前を指している。お昼にはまだ早い。エリックさんと僕はカプチーノを注文、同じテーブルに彼らを前にして座った。

「おはよう。久しぶりだね、ケント。仕事のほうは順調かね」

「えぇ、なんとかやっています。最近アメリカドルの値動きが激しく、それに連動する形でユーロの動きも激しくなっています。まぁそうは言ってもいつものことですが……。大したことはありません」

驚いた。またしても日本語を話すじゃないか。エリックさんは、日本人の僕に合わせてくれているのか、やけに日本語を話せる人ばかり紹介する。そのあまりの手際の良さにいたく感心した。

エリックさんとケントが堅く握手すると、今度は僕に挨拶の順番が回って来た。

「名前はケント。はじめてかい、オーストリアは? いい所だよ、ここは。存分に楽しんでいくといい」

「ヒロです。よろしく」

僕は作り笑顔をした。イケ好かない雰囲気を彼に感じたからだ。僕よりも年上、年令で言ったら32、3くらいか。ビジネスの経験は豊富そうだ。だがそのエリート然とした立ち振る舞いが鼻に付く。そんなモヤモヤした思いを胸に秘め座っていた。

「いま、どんなビジネスをしているんだい」

のっけからその男は尋ねてくる。こっちは無職だとおおよそ聴いているだろうに……。失礼極まりない奴だ。

ぶしつけな質問をよそに、僕はほかに思いを巡らせていた。レイラを目の前にして昨日のできごとを思い出していたのだ。夜だとロマンチックに感じるが、昼だと照れる。その気持ちをレイラも察したのか横目で僕を見つめていた。

「答えてあげたまえ、ヒロくん」

しばらく口をつぐんでいると、エリックさんがうながした。

「これと言って何もしていないんですよ。以前はIT関係の会社に勤めていたんですけど、じきにそこも辞めちゃって……」

ケントの話など、どうでもいいように思えた僕は、まるで気のない返事をした。

「ということはリストラかい?」

会ったばかりなのにケントという男は、僕が一番気にしていることを情け容赦なくえぐってくる。この男にはデリカシーという言葉もないのか。レイラには“次のビジネスをはじめるまでの猶予期間――”なんてうそぶいていたが、ケントの容赦ない質問に、うまくことばを返せない自分がそこにいた。

「うん。まぁそういうことだね」

彼とは話したくなかった。比較されている気がしたからだ。たしかにいまは何の職にも就いてはいない――そんな自分がみじめだった。

「ヒロくん。今日ケントに来てもらったのには意味がある。お金がいかに人を支配し、振り回すのか、その見えざる力を知ってもらうためだ」

「……」

「それからレイラに来てもらったのは、女性の視点でも意見してもらおうと思ってね。ビジネススクールで経営学を学び、株の投資から経営コンサルティングの仕事を手がける彼女ならユニークな意見をくれるはずだ。二人とも日本語はたん能だから安心して話してくれたまえ」

「こういう場を作ってくださって光栄です」

自分の気持ちとは裏腹なことを言った。ウソをつくのは嫌だった。だが仕方ない。かつてサラリーマン社会にいたときは、建前ばかり言う彼らをバカにしていた。しかしいまはどうだ。自分が建前ばかり言っているじゃないか。そんな自分が恥ずかしかった。

ほとんど上の空でしか聴けない。手持ち無沙汰で仕方なかったので色鮮やかな建物群を見つけては眺めていた。

ん? またしても何かが脚に当たっている。それは生温かくて柔らかなレイラの脚だった。イスの背もたれにもたれかかると、ワインレッドのミニスカートからほどよく肉の付いた脚がこちらまで伸びてきているのが観えた。彼女はその長い脚で僕をつついてきたのだ。

会話に乗り気でない僕を見透かしたのか、レイラはたたみかけるような言い方をしてきた。

「日本じゃどうなの? ヒロ」

無理に話題を振ってきた。話について来れるよう気をつかってくれたのだ。その心配りに彼女なりの優しさを感じた。

ただ、その後もケントは気に障ることをイチイチ言っては来たが……。

第22章 魅惑

話は経営や投資をはじめとするお金の議論に集中した。仕方なく適当にあいづちを打つしかなかった。ピンと来なかったからだ。話に付いていけない僕は、屋久島でのひとときをボンヤリと思い出していた。

源三さんはいま、どうしているのだろう……。彼と過ごした日々が懐かしい。あのときの話題に比べ、今日は何てややこしい話なんだ。時折り絡んでくるレイラも僕のことをどう思っているのか。

ふと、彼女の気持ちを確かめたくなった。じかに触れてみたくなったのだ。彼女の両手はヒザの上にチョコンと添えられている。その手に僕の手を重ねると、柔らかく温かな感触がじんわり伝わってきた。すると彼女も手を裏返し、こちらの手をギュッと握ってきた。

「……だと思うが――。どうだね、ヒロくん」

「えっ」

今度はエリックさんが話を振ってきた。チラリと横目でレイラの顔をのぞいた。僕の気持ちを察してか、彼女も微笑み、いたずらっぽくこちらを見ている。

「ごめんなさい。ちょっとほかのことを考えていて……。オーストリアという国の居心地が余りにもいいもので……。ここに住んでいる人は恵まれているな、なんて思っていました」

すかさずケントがわかったような物言いをして来た。

「まぁ仕方ないさ。初めて訪れた地なんだから。僕たちには珍しくも何ともないけどね。毎日こんな感じだから。そうだよな、レイラ」

「そうね」

レイラはまるで素っ気なかった。彼女を取り囲むように、周りには赤ワインやオレンジ色の屋根の建物が観える。色の暖かさは彼女の表情の冷たさとは対照的。一方、壁はブラウンやアイボリーなど、落ち着いた色を基調としている。通りには春物のカジュアルな服を着こなし、品よく歩く人たちが観えた。その光景を見ていると、なんとなく心が落ち着いた。

しばらくすると店のスタッフがやってきた。グラスを手にし、水をつぎ足してくれた。その男性はアイロンがかかった白のシャツとタック入りパンツを履き、蝶ネクタイを締めていた。ここではすべてがサマになる。

エリックさんは、退屈そうな僕のことを気にかけてくれたのか、話題のほこ先を変えてくれた。

「美しい光景も、見慣れるとそれが当たり前になる。私は世界を旅して来たが、日本、なかでも京都や奈良はほかとは違う。何かがそこにある。ワビサビといった日本古来の伝統と文化を感じさせてくれた。いつもと違う場所に身を置くのもいいものだ。

忘れないうち紹介しておこう。ケントはレイラのボーイフレンドなんだ。付き合って3ヶ月になる」

何だって! 付き合っているなんて知らなかった。じゃ、いままでの態度は何だ! 僕をからかっているのか。

エリックさんの話は続いた。

「今日の話は少し専門的過ぎるかも知れない。しかし知っておいて損はない話だ。がんばって着いてきてほしい。

一見、投資の世界は理詰めで動いているように観える。業績に応じて企業の将来が予想され、株や債券が買われたり売られたりするからだ。ところがそうした動きとは別に、市場は感情的な反応もする。トップのちょっとした発言が引き金となり、好感されたり悲感されたり……。言わばそれは女性的反応とも言える」

「どういうことですか」

「市場と女性は感情的に動くものだ。例で示そう。多くの女性は放って置かれると、落ち着かず不安になる。愛されていないと感じる。男は心の隙間を仕事でごまかすこともできるが、女性はそういうわけにもいかない。誰かといたい。愛が欲しいんだ。放って置かれるといつしか気持ちも冷めてくる」

「そんなものですかね」

女性の気持ちはいまひとつわからない。レイラが続けた。

「ヒロにはわからないかもね。ただいくら愛を示されてもこっちの気持ちをくみ取ってくれなかったら、それも不満よ。そんなの一方的な愛だから」

レイラはそう言い、ケントをにらんだ。

「おいおい、話をこっちに振るなよ」

ケントは困ったような顔をし、エリックさんに軽く目配せした。

「話が少し脱線した。元に戻すとしよう。市場は敏感だ。株価も市場に合わせて動く。将来性ある企業には市場もラブコールをする。ところがひとつでもほころびが出ると、すぐにニュースとなり株価は揺れる。そのうち次々スキャンダルが出て一気につぶれることもある。

アナリスト経験の長いケントにこの続きは話してもらおう」

「わかりました。最初は私も、企業は実績を上げさえすれば市場が評価してくれる。それに連れて株価も上がる。そう単純に思っていました。ですが一概にそう言い切れない面もあるとわかりました。実績という『事実』より公表されるニュースに市場は敏感に反応するのです。仮にそれが脚色された、事実とは異なるものであっても――。大衆はちょっとしたニュースにも影響されるものなんです。

これはある大手老舗鉄鋼メーカーの例です。その会社は創業100年を経たのち、業績を上げる策として、オーナーが創業者からやり手の投資ファンド会社に代わりました。その後、企業の吸収・合併を繰り返すようになりました。いわゆるM&Aというヤツです。その際、収益を上げる為たび重なるリストラをし、効率化を極限まで推し進めました。

その結果、それまでパッとしなかった業績が急に上向きとなり、一気に黒字化しました。銀行や市場からは、より有利な条件で資金調達でき、新たなM&Aを実施していきました。調和を重んじる企業からドライなアメリカ企業型経営へと変わっていったのです。ところが決算発表後、株価が一気に下がりました」

「どういうことか話してくれ」

エリックさんは話を続けるよう促した。

「はい。この企業は水増し決算といった不誠実なことは一切やっていなかったんです。実に健全で透明な決算をやっていた。ところがある点を見落としていたのです。それが致命的だった。

従業員のことを考えていなかったんです。株価や業績を上げることばかり考えていて、従業員の不満は置きざりにしていたんです。

これが後で響いた。あるとき従業員の不満が爆発した。集団で提訴し始めたのです。それも最初は誰かのマスコミへの投書がきっかけでした」

「興味深いね」

「マスコミはその企業の広告も請け負っています。ですからいい加減な情報では記事にできません。スキャンダルを柱とする雑誌とかは別として。

ところが投書は一人だけじゃなかった。何人もの投書によって企業の内部事情が暴露されました。インターネット匿名掲示板にも書き込まれました。上司との激しいやりとりも一部始終録音され公開されました。プライバシーの問題もあるので、そのサイトは即刻削除されましたが。すると今度はほかのサイトで次々とアップされていったんです。

ですが不当労働行為というのは表向きの話で、本当の問題は別の所にあったと観ています」

「……というと?」

「つまりはこういうことです。人は、誰かに認められたり、ねぎらってもらえれば、きつい仕事でも結構やれるものです。給与が少々低くても」

「なるほど」

「けれども不満を聴いてもらえなかったり、ロボットのように扱われ、簡単にリストラされる状況が続くと、従業員の不満は溜まっていく。どこかにはけ口がないと、いつしかそれは爆発するんです。

こうした働かされる側のネガティブな心情を見ず、一方的に自分スタイルの改革を推し進める経営者は実に多い。中には“自分が認められたい”という欲求だけで企業を成長させようとする。そのヒズミが破たんの原因となるんです。元々それは経営者の“怒りや悲しみ”を成長のエネルギー源とし、従業員をないがしろにした結果引き起こされるのです」

「それなら僕も同じです! 両親に理解されなかった怒りや悲しみをバネにしていますから」

どこかフテくされていた僕は、つっかかりつっかかりしながら、投げやりな言葉を吐いた。

「内なる想いをうまく外に出せているならいいんだ。きれいに昇華できているわけだから。だけどそれにフタをしたり見て見ないフリをしていると、後で痛いしっぺ返しがくる」

「じゃあどうしたらいいんですか? 過去の痛みを持った経営者は」

「その想いを家族や友人、時に従業員と語り合う場を持つことだよ。精神的に落ち着き、飾らない自分でいること。そうすれば身近な人たちとつながることができ、ひいては市場とつながることになる。

まれにだが大企業にもそういうところがある。アメリカのスターバックスやブラジルのセムコといった企業だ。こうした企業は大きな割に従業員の意志をとても尊重するというユニークな面を持つ」

「ふうん」

ケントの一連の話はエリックさんからも聴かされていた。だから言っていることはわからなくもなかった。ただスンナリ同調するのも何だかシャクだ。そこで適当に相づちを打つことにした。

「偉そうに言うけどケントだってまるでできていないじゃない」

レイラが話に割り込んで来た。

「おいおい、いきなり突っ込むなよ。言うは易くおこないは難(かた)しさ。自分の弱みを吐露するなんて真っぴらゴメンさ。正直負けた気がするからね。さてと、そろそろ行こうかレイラ。エリックさん、この辺で失礼します」

そう言うと、ケントはレイラの手を引いた。もう一方の彼女の手はテーブルの下で僕の手を握っている。キュッとレイラは僕の手を強く握り締め、何かを手渡した。

「じゃ、またね」

彼女は立ちあがり、別れを告げると、その場をそそくさと立ち去った。名残惜しい気持ちをかき消すように、ケントの車の排気音が僕の耳にうるさくこだました。

レイラから渡されたのは紙ナプキンだった。エリックさんに感づかれぬようこっそり見ると、そこには“call me(コールミー)”と書かれてあり、その横には電話番号が添えられていた。

「場所を変えようか」

エリックさんはそう言うと、極上のパスタを食べさせてくれる店に連れて行ってくれた。店は10分くらい山手に走ったライン川の上流、小高い丘の上にあった。見晴らしが良く、シンプルに造られた外観は格式ばったヨーロッパ調ではなく、イタリアやスペインを思わせるラテンのノリだった。

そこでふと、僕はある映画を思い出した。素潜り世界チャンピオンを競う、美しい海を舞台にした映画『グラン・ブルー』(※)だ。その中で主人公のエンゾが、ライバルのジャック・マイヨールとうまそうにスパゲティーを食べるシーンがある。開放感いっぱいの店の雰囲気が映画のワンシーンを思い出させたのだ。

(※『グラン・ブルー』:「レオン」「タクシー」「フィフスエレメント」「トランスポーター」で有名なフランスの監督、リュック・ベッソンの映画。シチリアなど美しい海とエリックセラの音楽が印象的でロングヒットした。)



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