“いいね”はいらない? SNSとの付き合い方

みなさんはnoteでもなんでも、自分がせっかく書き上げた文章、作品に「いいね」がまったくつかなかったら、腹が立たないだろうか? 
 正直、わたしはしょっちゅう腹を立てています。わたしの傾向として、それだけ他者からの批判に敏感なところはあるのだと思っています。

これは現代におけるSNSの功罪だと考えています。他人との共感、帰属意識みたいなのを刺激するんですかね。
 そういえば古くからある考え方のモデルに、マズローの欲求段階というものがあった。いちばん下位には生理的な欲求、それから安全を求める欲求、その上にたしか社会的欲求と承認欲求があったと思う。
 SNS時代においては、他人のからの評価、評判をしょっちゅう気にしなければならないことになるでしょう。そしてこれはまったくくだらないことだと考えています。

とくに女性に多いんだけど、文章も短いし中身も大してないのに、なぜかたくさん「いいね」がついていることがあったりするのを見かけますよね。
 こういうのを見て思うのは、結局「いいね」というのは作品の善し悪しは一切関係なくて、ようは仲間内での“馴れ合い”でしかないんだなと。
 また、一つのテーマでしか文章を載せないような人も、比較的「いいね」をもらいやすいように見えます。そういう人はアカウントを使い分けたりして、このアカウントではこの投稿しかしない、というふうにしているのでしょう。
 しかし、わたしはそういうやり方には反対で、むしろその人を特定のテーマしか持たない、人生の薄っぺらな人に見せてしまうだけだと思います。

そういえば、去年の今ごろに読んだ本に「デタラメ データ社会の嘘を見抜く」(日本経済新聞社)というものがあった。そこには次のような記述もあった。

インターネット革命は素晴らしい成果をもたらしたが大きな欠点もあった。深刻さや思慮の深さといった要素は疎んじられて、軽さや楽しさがもてはやされるようになった。報道内容の偏りが目立つようになり、誤情報、偽情報、フェイクニュースが次から次へと押し寄せてくる。

昨今は、ワクチンや薬の安全性を強調する医者や専門家の方々も見受けられますが、これにも注意が必要です。
 データや統計を引き合いに出しながら、一見すると説得力があるように見せかけているだけの可能性も考えられる。そもそも製薬会社が公表するデータの中には、(故意の)誤りや過小評価が含まれていることを念頭におくべきでしょう。
 そして、追い詰められた人間はときに相手を罵倒して、「陰謀論」などのレッテル貼りをして相手を貶すこともよく見られます。

情報が氾濫する現代の時代に、また誰もがネットを駆使して発信する側にまわれる時代。ありきたりの結論ではあるけれども、一人ひとりが情報の真偽や軽重を見極める眼力、リテラシーみたいなものが求められているようにわたしには思われます。