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なんでも理由をつけては祭り化する

今日のおすすめの一冊は、荒川和久氏の『ソロエコノミーの襲来』(ワニブックス)です。その中から「ソロエコノミーと江戸時代」と題してブログを書きました。

本書の中に「なんでも理由をつけては祭り化する」という興味深い文章がありました。

江戸っ子にとって祭りは欠かせないエンタテインメントだったが、江戸三大祭りのうちの山王祭と神田祭は、ふたつひっくるめて天下祭と呼ばれた。江戸城への入城も許され、将軍も見る幕府公認の大きな祭りだ。
特筆すべきは、この天下祭りに登場した象の練物である。練物とは、仮装や作り物で練り歩く行列のこと。つまり、仮装パレードである。 1838年の斎藤月岑著『東都歳事記』に、麹町の出し物で巨大な象と朝鮮通信使の 仮装をしたパレードの模様が絵入りで紹介されている。象の足元を見ると、下から人の足が覗いているのがわかる。この頃から、日本人のコスプレは気合が入っている。
月見も大イベントだった。歌川広重が描いた「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」という浮世絵にもコスプレしている様子が描かれている。 廿六夜待とは、旧暦7月26日(現代だと8月中旬から9月中旬の間)の夜に、念仏を唱えながら昇ってくる月を待つというイベントだが、そういった信仰的な意味合いより、 月が昇る明け方まで飲んで騒ぐオールナイトカーニバルとして栄えた。
当日は、寿司や天婦羅などの屋台が並び、タコのコスプレで参加した男たちが楽しむ様子も描かれている。 タコのコスプレと言えば、小澤華嶽が描いた『蝶々踊図屏風』にも見られる。これは、江戸ではなく京都で1840年ごろ大流 行した仮装踊りのお祭りだが、タコやすっぽん、なまずのコスプレをして踊る大勢の人達が描かれている。さながら現代のハロウィンの日の渋谷のスクランブル 交差点のような賑わいだ。
今に続く隅田川の花火大会。そのはじまりは1733年。川開きに際して、飢饉や疫病によって亡くなった人たちを弔 う意味で打ち上げ花火があげられていた。 当時は、両国橋を中心として、上流が玉屋、下流が鍵屋という花火師の領分で、客の注文に応じていつでも花火をあげることができた。
今も隅田川花火大会はすごい人出だが、江戸時代も負けていない。両国橋の上は通勤ラッシュの電車並みに混み合い、川面を埋めるほどの納涼船も出ていた。 花見も賑わった。それまで花見の名所と言えば上野の山だったのだが、寛永寺が徳川家の菩提寺となったことでどんちゃん騒ぎができなくなった。そこで、飛鳥山に千本以上の桜を植樹し、新たな名所とした。隅田川の土手や品川の御殿山の桜もその頃整備された。
冬は何もしなかったかと言えばそうではない。江戸時代は割と積雪の多かった時代であり、一面の銀世界を肴に雪見酒を楽しんだ。富裕層は、深川の料亭で、障子を全開にし、寒さを我慢して酒と料理を楽しんだ。
とにかく一年中、なんでも理由をつけては祭り化し、酒を飲んだ。さらに言えば、商売の物流活動でさえ、江戸っ子たちはエンタメ化してしまう。大坂からの酒は、酒問屋がたくさんあった新川に集中するのだが、そこで「新酒番船」という新酒の輸送レースが毎年秋には行われた。その年に最初にできた酒を積んだ約10艘の船が、大坂から同時スタートし、江戸へ到着する順番を競ったレースだ。入賞3位以内の新酒の値段が、その年の酒価格の基準となるというので、酒好きの庶民も注目し、賑わった。ヴォジョレー・ヌーヴォーの初入荷をお祭り騒ぎする状況と似ている。

祭りやフェスティバルといえば、日本より海外の方が情熱的に踊り騒ぐ、といったイメージがあります。しかし、実は日本は世界の中でも有数の祭り好き民族です。それは、日本の各地に、その土地固有の有名な祭りがあるのを見てもわかります。

阿波踊り、よさこい祭り、博多祇園山笠、三社祭り、郡上おどり、長崎くんち、岸和田だんじり祭り、青森のねぶた祭り、祇園祭り、さっぽろ雪まつり、越中八尾おわら風の盆…

そして、祭りの間は踊り、歌い、騒ぎます。これは、天岩戸神話をみてもわかります。天照大神が天岩戸にお隠れになったとき、八百万の神々が岩戸の前で、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをして、大笑いし、天照大神を外に誘いだした、という神話です。つまり、酒を飲み、祭りをして、大騒ぎをすることが、明るさを取り戻し元気になると、古来よりわかっていたのです。

コロナ禍もそろそろ終わりに近づいています。今こそ、「なんでも理由をつけては祭り化する」という日本人が古来より持っているエンタメの力を発揮し、祭りを楽しみ、元気を取り戻す時だと思うのです。

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