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学んだことの実践が如何に大事か

今日のおすすめの一冊は、小林正観さんの『「そ・わ・か」の法則』(サンマーク出版)です。その中から「味わい深い人生を送るためには」という題でブログを書きました。

本書の中に「学んだことを日常生活で役立てるかが大事」という素敵な一文があったのでシェアします。

ある三十代の女性から電話をもらいました。それはこんな内容でした。同じ職場の五十代の女性が、その人が参加している新興宗教の集まりに一緒に参加しないか、と誘ってきたというのです。その人が言うには、その新興宗教の集会は大変気持ちのよいもので、みんながスリッパをそろえる、あるいは靴をそろえる、掃き清める、拭き掃除をする、トイレもピカピカ、というように、皆が笑顔で素晴らしい集まりなのだ、ということでした。
そんな素晴らしい集会だから、「あなたもぜひ来てみなさい」と言われたのだそうです。ところが、その三十代の女性が言うには、「でも、その五十代の女性は、日常的には全然そのようなことをやっていないんですよね」。
どういうことかというと、スリッパを脱ぐときは、他の人がまったく真似できないような脱ぎ方をする(右と左がだいたい1メートルくらい離れているそうです)、あるいは、靴を脱ぐときに、きちんとそろえて脱ぐことをしない。手前に向けて並べ替えるというようなことはもちろんしないし、それどころか、ものすごい靴の脱ぎ方をするというのです。
しかも、非常に気分屋で、機嫌がよかったり悪かったり、というのも相当なものだそうで、あるときは、腹を立ててくずかごを蹴って10メートルも飛ばしたというのですから、かなり腹を立てやすい人のようです。まわりのOLたちも、ずいぶん嫌みや皮肉やイライラのはけ口の対象にされたりして、その人をけむたがっているということでした。
そして、その人の子供にも諸々の問題があってイライラしているらしく、決して日常生活の中で穏やかに心楽しく過ごしているわけではないのです。その女性は、「だから私、そんな集会に行かなくていいですよね」と言いました。
研修やセミナーに行って、そういう仲間が集まったときだけ、にこやかに穏やかになり、あるいは奉仕活動に身も心もささげるというのは、一見素晴らしいことのようですが、実は、そこで得られたものを、いかに日常的に実践するか、いかに日常生活に持ち帰ってくるか、ということも問われているのです。
どんなにその研修合宿が素晴らしく心温まるものであっても、そこで学んだことや体験したことを、日常生活の中で実践しなければ何の意味もありません。むしろ学ばなければ、驕り、高ぶり、傲慢にならないわけですから、そのほうがよいような気さえします。
本来、宗教の研修合宿やセミナーも、日常生活(24時間、365日)を心穏やかに過ごすための準備であるべきであって、本質は24時間、365日の日常生活なのではないでしょうか。そこで心穏やかに、ニコニコ、同じ笑顔で暮らせるか、人と接することができるかどうか、ということを問われているのです。

人を見る(判断する)時は、その人の具体的な行動を見る必要があります。いくら言葉で、カッコよくて、素晴らしいことを言ったとしても、それが行動に落とし込まれていなければ、それは無いのと一緒です。すべては行動で表現されます。「人生、楽しく生きよう」と言っている人が、毎日不機嫌で、怒鳴り散らしてばかりいたら、何の説得力もありません。


「歩歩是道場(ほぼこれどうじょう)」という禅の言葉があります。修行は道場だけのものではなく、日々の生活や言動すべてである、という意味です。日常の何気ない言動や仕事の中で、自分を磨き、自己を高めることが必要だということですね。実践が如何に大事か、ということだと思うのです。

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