見出し画像

まちづくりでの当事者意識

今日のおすすめの一冊は、木下斉氏の『稼ぐまちが地方を変える 誰も言わなかった10の鉄則』(NHK出版新書460)です。その中から「稼ぐまちが地方を変える」という題でブログを書きました。

本書の中に「まちづくりでの当事者意識」という心に響く文章がありました。

日本ではまだ、不動産オーナーが中心となってまちづくりを推進する、ということは主流にはなっていません。立ち上がるべき人が立ち上がっていない。

身銭を切って自分のまちのために投資しているわけでもないのに、不満があれば役所に乗り込み、「なんとかしてくれ」と頼み込む。「損はしたくないが得はしたい」という意識が充満しているわけです。 

そして、不動産価値は景気で決まり、まちの価値は行政がつくってくれるといまだに信じています。戦後長らく、行政主導の仕組みがうまく回ってしまったがゆえに、自らが率先して立ち上がる意識がなくなってしまったとも言えます。 

その要望に応えて、官が税金を投入して巨大な再開発などを行っても、今は開発だけが行われ、テナントは埋まらず、結果ますます衰退していってしまう。 土地を供出した不動産オーナーは売り逃げが出来るかもしれませんが、それは「このまちを捨てる」と彼らが決断したときです。 

いわゆる「シャッター通り」商店街の多くも、実は特段困っていない。よくメディア等では「地方経済の衰退の象徴」といったイメージで捉えて報道しますが、必ずしもそう一面的には捉えられないのです。 

表通りにある物件を閉めたまま放置しているのは、その不動産オーナーの生活に余裕がある証拠です。もし本当に経営的に追い込まれていたら、銀行に全て抵当として取られているはずです。余裕があるからこそ、物件を汚いまま放置しておけるのです。

しかし、不動産オーナーが自分の生活が安泰だからといって、物件を汚いまま放置してそれが何軒にもなれば、地域の価値は下がります。私たちは、彼らのこうした無自覚な態度を、「まちの公然猥褻」と揶揄しています。 

その背景にあるのは、不動産オーナーの公共意識の希薄さです。自分の資産は個別のもので、周辺地域とつながっているとは考えていないわけです。そして、自分の資産だから 自分の勝手にしていいのだと思っているのです。

不在地主ともなれば、その場に住んでいないので、そのまちに興味や愛着さえもない。 繰り返しますが、まず不動産オーナーが本気にならなければ、地域はどうにもなりません。外部の人間が勝手に物件をいじるわけにもいかないですし、どんな提案をしようとも、意思決定権は不動産オーナーが握っています。


行政がどれだけ税金を突っ込んで開発したとしても、1%の敷地に立派な建物が出来るだけで、残り99%の建物が放置されたままならば、まちはよくなりません。まちのオーナーシップは、不動産オーナーにあるのです。

全国津々浦々、あらゆる場所において、その場所のオーナーシップを持つ人たちが当事者意識を持たない限り、いくら優れた手法があっても機能しません。まずは彼らがこのような発想を持てるかどうかが、今後の日本の「まちづくり」を大きく左右するのです。

◆どんな問題であろうと、それが自分事になっていない人は、問題を解決することはできない。当事者意識の低い人であり、他人事の人だ。

当事者意識の薄い人は、「すぐに人やまわりのせいにする」「自ら行動しないで人の批判ばかりする評論家」「自分で責任を取ろうとしない」「誰かが何とかしてくれると思っている」「危機感が薄い」

もし、当事者意識の薄いプロスポーツ選手がいたとしたら、その人はあっというまに給料をもらえなくなるだろう。プロスポーツの世界では、結果がすべて個人に帰結するからだ。

しかし、やっかいなことに会社や組織の中、とりわけ商店街の中には、当事者意識が薄い人たちが多くいることも事実だ。

まちづくりにおいては、当事者意識が必須だ。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?