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人生を楽しむということ

今日のおすすめの一冊は、小林正観さんの『もうひとつの幸せ論』(ダイヤモンド社)です。その中から「どんなときに、我々は成長できるのか」という題でブログを書きました。

本書の中に「人生を楽しむということ」という、心に響く文章がありました。

60歳を過ぎたくらいの会社社長がいます。彼は30年あまり、ワンマン社長として辣腕(らつわん)を振るってきたのですが、ある日突然、心臓麻痺で死んでしまいました。

肉体から抜けた彼の「魂」は、トンネルと林を通り、お花畑に差し掛かりました。空は青く、寒くも暑くもなく、とても心地よいところです。すると、天から声が聞こえてきたそうです。その声は社長の「魂」に語りかけました。「川べりまで行ったら『人生のまとめ』について尋ねる。川べりに着くまでに、自分がどんな人生を歩んできたのかを、まとめておきなさい」

その社長は、人の20倍も30倍も努力をして、頑張って、怠けることも、休むこともなく、ただただ働き続けました。会社は大きくなり、従業員は1000人。商工会の役員も務め、地位と名誉を手に入れたのです。

自分が成し遂げた実績に自信をもっていた社長は、「努力し、頑張り続けた自分は、きっと神様に褒めていただける」と胸を張り、意気揚々と川べりまで歩いていきました。川べりにたどり着いたとき、再び、あの声が聞こえてきました。

「それでは『人生のまとめ』について聞く。人生をどれほど楽しんできたか?」社長は絶句し、答えられませんでした。どうしてか。「人生を楽しんだ」と思った瞬間が、一瞬たりともなかったからです。

社長は、「人生は努力をするもの、頑張るものだ」と疑わず、ひたすら厳しく生きてきました。従業員を叱咤し、家族にも厳しく接してきました。そんな彼に「人生を楽しむ」という概念は、まったくなかったのです。

言葉を失った社長に、「天の声」は言いました。「あなたは人生を勘違いして生きてきました。もう一度やり直しなさい」「えっ」と思った瞬間、社長は息を吹き返しました。生き返ったのです(彼は今も生きています)。

生き返った社長は、この経験を「自分の頭の中で想像した話ではない」と断言しています。「人生は楽しむもの」というような概念は、今までまったく持ち合わせていなかった自分に、このような想像ができるわけがないからです。だからこそ社長は「あの声は、神様の声だった」と、今も信じています。

「神様の声」は、「人生は、努力するものでも、頑張るものでも、地位や名誉を手に入れるものでもない」ということを教えてくれています。では人生は何のためにあるのでしょうか。

人生は「楽しむもの」。つまり「喜ばれるため」に存在しているのです。

小林正観さんは、努力をすることを否定しているわけではない。しかし、「努力」は往々にして、他人と競ったり、比べたりするためにすることが多い。ライバルに負けないために、倍も三倍も努力する。

しかし、そもそも競合他社やライバルのことなど気にせず、社員の喜ぶことや、幸せだけを考えるとしたらどうだろう。社員が幸せになれば、結果として、社員が接するお客さんも幸せになる。逆に、不幸で不機嫌な社員は、お客さんを幸せにすることはできない。

人生の最大の楽しみは、まわりの人が喜んでくれること。そうすると、その姿を見ている自分は限りなく楽しい。世間一般に言われる、自分が楽しいことをするから楽しい、というのは初期の段階の楽しみ。

だからこそ、私たちが生きる目的は「人に喜ばれること」だと言える。言いかえるなら、「喜ばれること」が、人生のすべて。

まわりの人に喜ばれる人生をおくりたい。

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