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いくつになっても学び続ける

今日のおすすめの一冊は、出口治明氏の『人生の教養が身につく名言集』(三笠書房)です。その中から「人はなんのために勉強をするのか?」という題でブログを書きました。

致知出版社長の藤尾秀昭氏が「学び」についてこう語っています。

「心ここに在(あ)らざれば、視(み)れども見えず、聴けども聞こえず、食(くら)えどもその味を知らず」心がここになかったら、視ていても見えない、聴いても聞こえない、食べてもその味が分からない、という。古典の名著『大学』にある言葉である。
次に弘法大師空海の言葉。「医王の目には途(みち)に触れて皆薬なり。解宝(げほう)の人は鉱石(こうしゃく)を宝と見る」名医は道に生えている草の中からも薬を見出し、宝を解(かい)する達人は普通の石の中にも宝を見つける、というのである。
結局、人生はこの二つの言葉が指し示すところに尽きるのではないだろうか。真理は月の光のように満ちあふれている、と言ったのは誰だったか。見る目を持った人が見れば、人を幸福に導く真理は至るところにあふれているのに、それに気づき、つかもうとする人がいないことを示唆した言葉である。では、どうしたら満ちあふれる真理に気づき、医王の目を養い、解宝の人になることができるのか。
古来多くの名人、達人の生き方にそのヒントを探れるように思う。その第一は「真剣に生きる」ことである。まったくの徒手空拳(としゅくうけん)から身を起こし成功を勝ち得た人は一様に、真剣に努力した人である。そういう人のみが天地不書の秘伝、法則をつかむのだ。
第二は「恩を忘れず、恩を返す」。受けた恩を忘れないで必ず返そうとする姿勢に、宇宙の霊妙(れいみょう)な働きは呼応(こおう)するのである。第三は「いまここに生きる」こと。人生は「いまここ」しかない。その「いまここ」に集中する。心の焦点が定まっていない人に、真の気づきは得られない。
第四は「学ぶ」ことである。松原泰道(たいどう)老師がよく口にされる『法句教(ほっくきょう)』の言葉がある。「頭(こうべ)白しとてこのことによりてのみ彼は長老(おさ)たらず彼の齢(よわい)よし熟したりともこれ空しく老いたる人とのみよばれん」高齢者になったから尊いのではない。高齢者になってもなお道を求めてやまないところに年を取る意味はあるのだ、と師は言われる。(人生の大則/致知出版社

結局、いくつになっても、どの年代であっても、我々の真価は「学び続けているかどうか」によって決まります。学ぶ心がなければ、自分の魂を磨くことはできないからです。「徳は孤(こ)ならず、必ず隣(となり)有り」という論語の言葉があります。徳を積んだ人は、必ずその人に共感し協力する者が現れるので、孤立することはないといいます。

つまり、学び続けて、徳が高まった人の晩年は、たくさんの支持者やファンに囲まれて過ごすということです。反対に、まったく学ばず、魂も磨かず、ただいたずらに年を取ってしまった者は、空しい老人になるしかないのです。真剣に生き、恩を忘れず、恩を返し、今ここに生き、そして、学び続けること…いくつになっても、道を求めてやまない人でありたいものです。

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