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淡々と生きるとは

今日のおすすめの一冊は『「ホンネが丸見え」60の心理術』(新講社ワイド新書)です。その中から「面白さを見つけ、それを楽しむ」という題でブログを書きました。

本日のブログのテーマは「淡々と生きる」ですが、小林正観さんの「淡々と生きる」という本があります。その中の素敵な一節をシェアしたいと思います。

新しい茶葉に六十度のお湯を注ぎ、一杯目のお茶を出します。このお茶は甘い。同じ茶葉で、甘いお茶が出たあとの二杯目を、十度高い七十度ぐらいのお湯を注ぐと、今度は渋みが出ます。そしてさらに十度高い八十度ぐらいのお湯で三杯目を出すと、今度はお茶の苦い部分が出てくる。さらに、九十度以上の熱いお湯で四杯目を出すと、もう甘味もなく、渋みもなく、苦みもない、色だけのお茶が出ます。これが出がらしです。
千利休は、この四杯目以降のお茶、甘味もなく、渋みもなく、苦みもない、かすかに色が付いているだけの茶の味を、「淡味(たんみ)」と呼びました。「淡々と」の「淡」です。淡々とは、“水が静かに揺れ動く”という意味で、静かに安定している状態です。この淡味は、ただのお湯、白湯(さゆ)に近い状態です。利休は、「この淡味のよさがわからない限り、お茶は永久に理解ができない」と言っています。
利休は、出がらしのお茶のおいしさがわかるようになれと言った。じつはこの出がらしのお茶のおいしさとは、「感謝」です。茶道はお茶をいかにおいしく淹れるか、いかにおいしく味わうかの道ですが、それを甘い、渋いと言っている間は、まだ本質がわからない。淡味のお茶をいかに味わえるか、それをどう喜びとすることができるか、つまり感謝することができるか。そこで、本当のおもしろさがわかる。
お茶をたしなむ上で、器が良いとか、作法がどうとか、茶葉がどうとか、おいしいとかまずいなどと言っているうちは、まだまだなのだと利休は言いたかった。これを人生に置きかえていえば、朝起きて、仕事をして、帰ってきて、夕食を食べて、テレビを見て、寝て、また翌朝が来て、また仕事をして、また夕食を食べて…とそういう日々が繰り返されるなかに、人生のおもしろさや、幸せや、贅沢感というのがある。淡々と生きていくなかにこそある。
人生を、やれ楽しいの愉快のとはしゃいで、「どこそこに行ったからおもしろかった」「あそこに行ったからステキだった」などと言っている限り、本当の人生はわからない。淡味がわからない限り、人生は永久にわからない、ということです。「人生の本質は、淡味にあり」です。「淡々と生きる」ことです。(淡々と生きる/風雲舎)

我々は、淡々と過ぎていく平和で単調な毎日こそ、幸せだということに気づきません。世界のどこかで、戦争や紛争が起こっています。また、飢餓にあえいでいる国々や、独裁的で自由のない国家もあります。こんなに平和で恵まれて国に生まれているのに、文句をいい、不平や不満を垂れ流しています。この日本に生まれた幸せ、そして、淡々と過ぎていく毎日に感謝したいと思います。

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