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自分がどう生きるか

今日のおすすめの一冊は、小林正観さんの『「今」という生きかた』(廣済堂文庫)です。その中から「自分にちょうどいい人に囲まれる」という題でブログを書きました。

本書の中に「自分がどう生きるか」という心に響く文章がありました。

すべての人間関係において、自分の思いどおりにしようと考えることは、やめたほうがいい。 その人がそのように生きたいというのであれば、それを丸ごと認めてあげる。 

「ではその人が、どんな生き方をしてもいいのですか?」 と質問する人がいますが、答えは、 「どんな生き方をしてもいい」 要は、「私がどう生きるか」だけ。 人を責める必要はありません。 

ブラブラと生活している人が許せないと思うなら、自分はブラブラ遊びながら生きないぞ、と自分に刃を向けていく。 

たとえば仕事をさぼり、要領よく立ち回って給料をもらっている人がいるとしましょう。 それが羨(うらや)ましいと思うなら、自分もそうすればいい。 それが許せないと思えば、自分はそのようなことをしなければいいのです。 

この人が許せないと糾弾する必要はありません。 仕事をさぼって要領よく生きる人は、そのような生き方に見合った結果が返ってきます。 ですから、その人をなんとかしなければとか、この人を糾弾しなくてはと思う必要はありません。

 ただ、「私はしない」と自分の問題としてとらえる。 もし糾弾したとしたら、糾弾された友人や家族は、みんなあなたから去っていくでしょう。

神様は人を糾弾する人には味方をしません。 大切なことは、人を責めて糾弾することではなく、「私」がどう生きるかだけです。 

◆誰かを責めたり糾弾するということは、悪口、不平不満、グチ、文句を言うということ。 そして、そいう人には「ゆるし」がない。「ゆるし」がない人には笑いもない。 他人のことを責めたり悪口ばかり言っていれば、人は去っていく。 

しかし反対に、どんなこと(どんな人)も面白がったり、笑ったりして、楽しそうに、機嫌よく生きてる人のまわりには、たくさんの人が集まる。 「面白がる」ことも、「笑い」も「ゆるし」だからだ。

「そこから先は神の領域」という言葉がある。人を責めたり糾弾するのは我々の領域ではない、と。

人生は、結局、「自分がどう生きるか」だけ。 感謝の気持ちで、明るく楽しく、機嫌よく生きていきたい。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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