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謙虚さを失うとき

今日のおすすめの一冊は、渡辺和子氏の『どんな時でも人は笑顔になれる』(PHP研究所)です。その中から「神様のポケット」という題でブログを書きました。

本書の中に「謙虚さを失うとき」という心に響く一節がありました。

たしか、エドワード・リーンという人の本の中に、「他人の行動とか、事物を通して起こる“ままならないこと”に腹を立てた瞬間、私たちは謙虚さを失っている」と書かれてあったように思います。

他人から受ける不当な扱い、誤解、不親切、意地悪等から全く自由になりたい、なれるはずだと思うことは、すでに人間としての「分際」を忘れた所業であると書かれていたように思います。

修道院に入って間もない頃、人間関係に悩み、多くの不合理に心穏やかでない時、ふと手にして深く考えさせられた本の一冊です。不完全な人間の寄り集まりである社会に生き、自分自身不完全であるからには、すべてが完璧に運び、思い通りになると考えるのは大まちがいであり、それは自分を神の位置に置くものでしかない。

「天が下のすべてのことには季節があり、すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くときがあり…」と『伝道の書』も言っています。

「神のなされることは、皆、その時にかなって美しい」。人の思うところは、必ずしも神の思うところと同じではありません。科学や技術がめざましく進歩し、生死まで司(つかさど)るかに見える人間の偉大さが随所で証明されているこの時代、人間の精神の真の偉大さは、おのれの限界を知ることにあるのではないでしょうか。

《ままならない人生だからこそ、人間としての分際を知り、他の人に寛容になれる》(不完全な人間の寄り集まる社会で、神さまでもない自分が、すべてを思い通りに生きられるはずがない)

仏教の出発点は「一切皆苦(いっさいかいく)」。「苦」とは苦しいということではなく、思い通りにならないことを言う。つまり、人生とは思い通りにならないことを知ることから始まる。何故「苦」が生じるかというと、それは「諸行無常」という、すべてがうつり変わるから。

人生は思い通りにならないことの連続だ。逆に、もし人生が思い通りになることの連続だとしたら、我々は、あっという間に謙虚さを失い、鼻持ちならない傲慢な人間となるだろう。

お金は思うままにいくらでも手に入り、金で買えないものはないとばかり、豪邸も豪華な生活も思いのまま、そして、誰でも頭を下げてきて自分に従う、となったらどんな人間でも、思いあがり、慢心してしまう。

分際(ぶんざい)とは、「身のほど」ということ。「身のほどをわきまえろ」というような言葉は、現代では死語のようになっているが、分(ぶ)をわきまえるとも言い、本来は、謙虚さを失わないということであり、自分中心にならない、我を張らないということでもある。

曽野綾子さんは「不条理だからこそ世の中である」と言う。つまり、ままならないからこそ人生なのだ。ままならない人生を、淡々と笑顔で受け止めて生きていきたい。

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