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ダンまち16巻 感想と考察

この記事は小説「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」16巻のネタバレが含まれます。

DM = 本編「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」
SO = 外伝「ソード・オラトリア」

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シル = フレイヤ 



 ダンまちにおいて第一巻から登場してきた酒場「豊穣の女主人」のメイド・シル。その正体については昔から考察のネタだった。

 ファミリアの一員ではなく、ダンジョンに潜ったこともない。しかし彼女は主人公ベル・クラネルの物語にぴたりと寄り添い続け、時としてベルの心を救うことすらあった。DM5巻でのアポロンファミリアとの戦い、孤児院の子供たちとの出会い、DM11巻で異端児騒動で傷ついたベルの心を励ますこともあった。DM13~14巻でヒロインレースに躍り出た妖精剣士・リューとの関係も、シルがいなければ始まらなかっただろう。

 ベルの人生に最も影響を与えたのが剣姫・アイズ・ヴァレンシュタインなのは間違いない。しかしシルが存在しなければ、彼のこれまでの軌跡は全く異なっていたと思う。そういう意味で、女神ヘスティアにも負けない程にこの作品における重要人物であったのは間違いない。

 そんなシルの正体は女神・フレイヤだった。猛者オッタルを筆頭とする都市最強派閥「フレイヤ・ファミリア」、現在のオラリオ最強集団が崇め奉る美神である。

 シルがフレイヤファミリアの関係者であることは随分前から匂わされていた。そもそも「豊穣の女主人」自体、フレイヤ・ファミリアの元団長である女ドワーフ・ミアが仕切っており、元団員である猫人・アーニャが所属している。あの酒場はフレイヤ・ファミリアと繋がりがあると早い段階から読者には示されていた。

 シル自身も、ただの町娘ではないことが度々示されていた。特に顕著なのはリュー外伝だ。

彼女が天真爛漫で慈愛に満ちた少女なのは間違いない。だからこそ潔癖なエルフのリューの手を握ることができた。

だがそれだけではなく、まるで作中の神々を思わせるような洞察力と知恵を隠し持っていることがこの外伝におけるトランプの場面で示されている。最終的にシルはその智彗によって親友であるリューのピンチを救い、都市に巣食う悪を討つ一助となる。

この少女は一体何者なのか?

先週発売された本編最新刊についてその正体が明かされた。

結論から言って、シルは紛れもない女神フレイヤその人だった。

16巻はシルがベルをデートに誘うところから全てが始まる。波瀾万丈の祭りデートの果てに、シルはベルにその愛を告白する。

これまでベルに好意を持つ女性は何人も登場してきたが、初めて、「好きだ」と、正面から彼に伝えた。女として、男であるベルが好きだと伝えた。

無論、われらが主人公(バカヤロウ)はその思いにはこたえられない。それがどれほど真摯な告白で、その思いがどれほど甘美であるとしても、彼は始まりに抱いた「金の憧憬」を裏切ることはできない。

知らなかった。
知らなかった。
好意を拒むということがーーこんなにも辛いことなんて、知らなかった。
                             (P381より)

そして、「神実(しんじつ)」が明らかになる。

少女が死んで、女神が笑う。忠実にして最強の従者(オッタル)に彼女はこう伝える。

「準備をして。あの子を盗りにいく。」
(中略)
「誰にも渡さない。ベル、貴方は女神(わたし)のモノにする。」

作者自身が「ラスボスがアップを始めました」と記すほどの爆弾が爆発した瞬間だった。


ミスリード


してやられた、と素直に思った。自分は作者である大森先生のミスリードに見事に引っかかってしまった。


このお話に先立つ外伝にて、フレイヤが貧民街の少女「シル」と出会う場面が描かれていた。そこで「シル」はフレイヤにこう伝える。

わたしは、あなたになりたいです。
わたしをやめて、きれいで、あたたかい、あなたになりたいです。

当然私は、この少女が、私たちの知っているシルなのだと思った。女神に「あなたになりたい」と告白した少女が、眷属になることで女神のような知恵を得た、或いはフレイヤと魂や感覚を共有するようになったのがシルなのではないかと。


 確かに女神になった少女・シルはいた。だが彼女はシルという名も姿も捨てていた。この貧民街の少女はフレイヤの従者・ヘルンのかつての姿だった。彼女は自分の姿と名前を捨てることで、変神魔法「唯一の秘法(ヴァナ・セイズ)」を授かり、神の力以外の全てにおいて「フレイヤ」になる。

 だが彼女はこれまで一度もベルと接触したことはない。当然だ。彼女は町娘シルの姿も名前も捨て去ったのだから。

 そして、捨てられた「シル」を手に入れたのが女神・フレイヤだった。

「それじゃあ、名前をあげる。代わりに貴方の名を私に頂戴?」

 明言はされていないが、おそらく眷属であるヘルンが「神様になる魔法」を獲得したと同時に、フレイヤもまた「人間になる」ことができるようになったのだと思われる。

 この世界では、神様はどれほど人間と同じ姿形をしていても「神威」によって神様であるとわかってしまう。神威を抑えて誤魔化すことは可能なようだがそれも無制限ではない。だがフレイヤは「シル」になることで限りなく「人間」に近づくことができるのだろう。

 これまで本編に登場し続けていた酒場の娘・シルはフレイヤが変身した姿だったのだ。

衝撃

シルとフレイヤの間に何らかの繋がりがあるという予想自体は自分だけでなく多くのダンまちファンの頭の中にあったと思う。

根拠もあった。そもそも「シル」とは北欧神話における女神フレイヤが世界を旅する際に人間に名乗った異名の一つだ。他にもDM1巻、いつもバベルの最上階に君臨しているというフレイヤが公的な場で一度もベルやヘスティアと直接会ったことがないにもかかわらず、ベルを見初めることができたのはなぜなのか。それはシルがベルに出会っているからであり、彼女を通してフレイヤもベルを知ったのではないか等々。

だがシルがズバリ、フレイヤ本人であるとは予想していなかった。

なにせパーソナリティーが違いすぎる。読者の知っているフレイヤとは、何者にも傅くことなく、猛者たちの尊崇と敬愛を一身に集める、誇り高く自由奔放な女王だ。猫を何千枚被ったらあのフレイヤが優しい町娘シルになるというのか。

リューの存在もある。人の本質を鋭く見抜くあのエルフが何年も一緒にいたのだ。そんな特大の裏面を隠していたら気づかないまでも疑いの目くらいは向けるのではないか?

またも自分の推測なのだが、「シル」になっているフレイヤは決して演技をしているとか周囲を騙しているわけではなかったのだと思う。
女神に「シル」を捧げた従者ヘルンは自身の状態をこう述べている。

発動している間、私はあの方と五感を共有し、思いをも一方的に受信する。
(中略)
「神の力」を使えないことを除けばーー私は体も、心まで女神になったのだ!

これの逆転現象がフレイヤに起こっていたとすれば、フレイヤもまた、心まで「シル」になっていたのではないか。我々の知っているシルは演技の産物ではない。神の視点、力を持っていたとしても、その感性、感覚、心は定命の存在としての少女・シルになりきっていたのではないだろうか。

劇中ではあの抜け目ないヘルメスでさえシルの正体を見極められなかったと吐露している。おそらくそれほど完璧に、フレイヤは人間になっていたのだと思われる。神々でさえ見通せない極大の「未知」、それが美神・フレイヤの身に起きた。


女神の行く末


 16巻の最後にて、フレイヤはベルを自分のものにすると宣言した。最強の猛者がベルと戦うことになるのかもしれない。あるいはロキ・ファミリア(主にアイズ)まで巻き込んだ大抗争が発生するのかもしれない。

 この決断はこれまでのフレイヤのふるまいからすれば当然だろう。

 オラリオどころか広い下界を旅して相応しい「伴侶(オーズ)」を探し求め、見初めた勇者を次々と手に入れてきた彼女である。「シル」がその思いを伝えて拒絶された以上、フレイヤはこれまで通りの方法でベルという伴侶候補を手に入れる。何もおかしいところはない。

 だが実のところ、意外だとも感じた。何故ならフレイヤは「手に入れないからこそ価値があるもの」の存在を知っているからだ。

 外伝にて彼女は砂漠の王女アリィと出会う。フレイヤはアリィの輝きを認め、彼女に大きな期待を抱いた。彼女の願いを叶えるために自分の勇者たちを動員さえした。

 だが結果的にフレイヤがアリィを手に入れることはなかった。

けれど、彼女は違った。(中略)彼女の輝きは『王』であるからこその光なのだ。フレイヤが手を出せばその光は消えてしまう。

正直自分には、ベルの輝きも同じように「手に入れたら消えてしまう」ように思えるのだ。

ベル・クラネルの根底にあるのは「金の憧憬」だ。フレイヤがベルを自身の眷属にしてしまったらその根底が崩れる。そうなった後に、ベルは果たしてフレイヤの伴侶候補でいられるのだろうか。


そしてもう一つ、「シル」は本当にそれを良しとするのだろうか。

「シル」として彼女が過ごした時間は単なる暇つぶし、娯楽であったのだろうか。自分にはそうは思えない。

この作品において、神と人間の間には決して埋まらない絶対的な違いがある。”不変”であり”不死”である神々は、生まれ、成長し、死んでゆく人間たちとは違う生き物だ。その点において彼らは同じ姿をして共に生活していたとしても決定的に断絶している。多くの神々が自分なりの在り方でその違いを受け止めて生活している。そこにはそこはかとなく寂しさが漂う。

しかし「シル」はどうであったのか。たとえ仮初の姿であったとしても、「シル」であった時の彼女は限りなく「人間」であったはずだ。

悠久の時を不変のまま過ごし、倦怠に付きまとわれていた女神にとって、ほんの一時、たとえ周囲を眷属たちが見張っていたのだとしても、「人間」として生きる時間があったとしたら、それはかけがえのない時間だったのではないか。

最後に決断を下したフレイヤは、いつも通りの女王であるように見えてその実、どこか自棄になっているようにも見えた。

「シル」がベルをデートに誘おうと決意する場面に、このような一節がある。

この想いが本当なのか。
『私』は『私』なのか。
『私』は『私』になれるのか。
『女神の軛』から、解き放たれることはできるのか。
これは『愛』なんかじゃない。
私はそれを、証明したい。

この一節が何を意味するのか考えている。

『愛』とは恐らく「女神としての愛」ではないだろうか。

『私』になるとはつまり、仮初の姿である「シル」が本物になること。『女神の軛』とはフレイヤ自身の女神としての意識のことではないか。

フレイヤは「真の望み」を抱えているという。伴侶とはこの望みをかなえてくれる人であり、それは一方的に崇拝される関係では決して兼ねられないのだともいう。

上の一節を考慮に入れて、自分が思うにフレイヤの伴侶(オーズ)とは、

”女神”である自分を、ただの”人”であるように、”対等”に愛してくれる、そして自分もまた、”対等”に愛することができる存在

なのではないだろうか。

だがフレイヤが神々でさえ虜にする「美の神」である以上、これは到底かなわない望みであるといっていい。そして神であるフレイヤは不変だ。彼女が彼女である限り、この願いが叶う日は来ない。

しかしもしフレイヤが人になれたとしたら。そして人として愛し合える存在と出会えたなら。フレイヤはその僅かな可能性に胸を躍らせて「シル」として過ごしていたのではないだろうか。今のフレイヤはたった一度の失敗で、このわずかな希望を諦めかけているように思える。

加えて「シル」として過ごした時間、紡いだ絆は決して嘘偽りではない。ベルを力ずくで手に入れるということはその時間を自らの手で壊すということ。果たして本当に「フレイヤ」は、「シル」は、それでいいのだろうか。楽しい時間も辛い時間も大切に続けていくからこそ、本当の意味でフレイヤは「人(シル)」になることができるのではないだろうか。


女神を救う物語

 

自分は、17巻はベルが女神フレイヤを救う物語になってほしいと思っている。

 それはフレイヤの望みをかなえるとか、オッタルに勝つとかいう話ではない。

 そもそも人の世界では恋も愛も、何の障害もなく叶うほうが珍しいし、成就しない恋愛の方が多い。女神の愛とは異なるものを手に入れるためにはそうした試練を経験し、乗り越えていかなければならないはずだ。一度や二度の失敗でそれを諦めてよいのか。あなたの望みはそんな簡単に叶うものではないし、だからこそ価値があるのではないか。


 フレイヤが真に欲し、それを拒絶したベルだからこそ、挫折経験の足りていない女神様に、人間世界の当たり前を教えられる、そういう形でフレイヤを倦怠から救うこともできるのではないだろうか。



とにもかくにも17巻が待ち遠しくて仕方ない。大森先生には体調に十分気を付けて執筆活動を続けてほしい。

それとこの文章がフレイヤ・ファミリアの誰かにみつかりませんように。






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