映画感想 シン・エヴァンゲリオン(ネタバレあり)
本当に終わった
中学生時代に出会った「序」で初めてエヴァンゲリオンを知り、夢中になってテレビシリーズを視聴した。「破」は少ない小遣いをやり繰りして4回見に行った。
シンジ、レイ、アスカ、ゲンドウ、カヲル、思春期に入りたての自分にとってエヴァンゲリオンとは「ハマる」には十分すぎるほど強烈なキャラクター達に満ち溢れた作品だった。
ロボットアニメでありながらキリスト教をモデルに神、人、自我、などといったテーマを前面に押し出してくるのも衝撃的だったことを覚えている。
テレビ版、および旧劇はハッピーエンドとはいえない結末を迎えた。主人公・碇シンジがギリギリまで追い詰められながら最後の一線を踏みとどまった、そういう終わりだったと理解した。
だからこそ「破」を見た自分の心は湧いた。様々な出来事の結果、今回のシンジは強い意志を持って綾波レイを使徒から救い出した。状況に振り回され心をすり減らしていくのではなく、自らの意志で困難に立ち向かう主人公になったのだと思った。
その4年後に叩きつけられたのが「Q」だった。率直にいって「何じゃこりゃ」と映画館で呆然としてしまった。
(Q時点では)シンジの決断のせいで綾波を救うどころか世界を滅ぼしたのだという事実を叩きつけられ、見知った人々は既に14年の月日を過ごしてしまい自分を罪人扱いする。拠り所であった綾波はまた空っぽの人形になり、アスカからは怒りをぶつけられ、ネルフは分裂、頼りにしていたミサトからは「もう何もしないで」。最後の希望に思えたカヲルすら目の前で失ってしまった。
これどうするんだと、ここからどうやってシンジを立ち直らせて、赤く染まり切った世界を救うんだと、想像もつかなかった。破とQの差が激しすぎたショックのせいで自分はエヴァについて考えることを意識的に避けるようになった。完結編についてはその後数年間、音沙汰さえなかった。
庵野監督が世に送り出した傑作「シン・ゴジラ」に感動する一方で「エヴァどうするの」という疑問を抱かざるを得なかった。
正直にいえば、公開日が発表されてからも強い疑いを抱いていた。
・結局完結しないのでは
・また前みたいに鬱々としたストーリーになるのでは
「とにかく終わってくれれば良い」そう念じて映画館に行った。連れて行かれるのはどんな地獄か、本気でそう思っていた。
地獄などではなかった。
庵野監督がエヴァを、そして観客である自分を導いたのは爽やかな風が吹く美しい草原だった。
何もかも失ったシンジの前に、大人になったトウジとケンスケが現れた。14年の時を経てなお「友達」として接してくれる二人の声が劇場で聞こえてきた瞬間、自分の口元が緩んだのがわかった。本当に「希望」が現れた。
そこから始まる「第三村」の場面。文明が崩壊しても、言葉にできないほどの悲しみや苦しさを経験しても、最後まで生きようと踏ん張る人々の姿。それはあの赤く染まった世界は死に絶えたわけではないのだと示すには十分すぎるほどだった。トウジもケンスケもその中で「大人」に成長していた。
この辺りで自分が好きな場面はシンジの叫びだ。
「何でみんな、こんなに優しいんだ」
この叫びで自分はシンジは立ち直ると確信した。Qの顛末の結果、喋ることも物を食べることもほとんどできなくなったシンジだったが心を閉ざして他人を拒絶していたわけではなかった。トウジの、ケンスケの、綾波の、(分かりづらいけど)アスカの、優しさをきちんと受け取っていた。
ただ彼には時間が必要だった。一人になって、自分のやったこと、やってしまったこと、周りの人のこと、それらを彼自身のペースで思い、考え、心を整理する時間が必要だった。だからケンスケの「信じて待とう」はこれ以上ない正解だったのだと思う。
まず第一に碇シンジという人間を信じてあげること、そして戻ってくるのを待つ、そういう優しさこそがあの時のシンジには必要だった。もちろんそれは、事情を知ってしまっているヴィレの人達には不可能なことだったのだが。
思い返すとシンジが綾波が持ってきた音楽プレイヤーは拒絶したのにレーションは受け取ったのも、彼が一人にしてほしいと言いつつ周りの優しさに気づき、それを受け取っていることを示していたのかもしれない。
そして再び訪れた綾波との別れ。正直ドキッとした。まさかまたか、と思いかけた。もちろん杞憂に過ぎなかったわけだが。自分の「落とし前」をつけるため、父に会うためにヴィレに戻ると決意したシンジの瞳、本当にかっこよかった。直後に麻酔打たれたけど。
その後の場面では破の結末直後に何があったのかが断片的に語られていた。
新劇場版で破以降姿を消していた加持の目的は「地球に生きる全ての種の保存」だった。破でシンジと一緒に耕した畑。宇宙へ射出される倉庫の中にはあの畑で育てた野菜が入っていたと思う。
更にサードインパクトは加持が命を犠牲にして止めたのだという。最後のシーンと合わせて考えるとあの時の月から飛来したカヲルとの連携プレーだったのだろう。見えないところで物語に大きく関わっていた漢だった。あの忙しい破のどこでミサトさんとやることやってたのかという疑問はあるが。
更に驚きだったのはアスカの口から「シンジのことが好きだった」と言葉が出てきたことである。あくまで過去形、自分にはもう意味のないこと。それでもあのアスカがそれを口にしたことの衝撃は大きかった。この時の会話でシンジは破の3号機との戦いで責任を取ろうとしなかった、決断できなかった自分の弱さを認めた。それを認められたシンジはもうQの冒頭、思わず殴りかかってしまった「ガキ」ではなく「大人」になろうとしている。だから「先に大人になっちゃった」アスカも十四年前の自分の気持ちを口にできた、そんなところではないかと思う。
そして全てにケリをつけるべく始まった最終決戦。ここから先、自分は上映前の恐れなど吹き飛んで純粋にエヴァを楽しんでいた。
戦歴ウン十年のベテランですみたいな佇まいで登場したアドミラル・冬月と葛城ミサト司令官の間で繰り広げられる空中戦
色々吹っ切れたアスカとあいも変わらずエヴァの搭乗をエンジョイするマリ、そして雲霞の如く迫り来る敵エヴァ(7号機?)や腕?だけエヴァとの戦い。
ここまでの映像だけでも一見の価値がある。
久々に登場したゲンドウはほとんど人外の存在になっていた。リツコに撃たれて飛び散った自分の脳を平然と拾い集める姿は人を捨てつつあることをわかりやすく描写していた。脳要らないなら拾わなくて良いのでは?とも思ったが。
初号機とアスカを連れ去って「裏宇宙(唐突な設定)」に向かったゲンドウを追おうとするシンジ。
ここから始まる一連の会話シーンもこの映画では外せない場面だと思う。ニアサードインパクトで大切なものを奪われた人として当たり前の怒り、憎しみをシンジにぶつけようとする北上隊員。同じ怒りを抱く一方で自分たちのために戦っていたシンジをこれ以上不幸にしたくないと葛藤を爆発させる鈴原サクラ。そしてそれら全てを受けて「碇シンジの上官」として彼の行動の責任を取ると再び宣言したミサト。
「行きなさい」と言ったのに最後にシンジの行動の責任を背負えなかった破、「何もしないで」と口にするしかなかったQでの再会、それらを経てもう一度「葛城ミサト」が戻ってきた(髪型も)。最後の作戦はヴィレの持つ残り全てを結集して新な「槍」を作りあげてシンジに託す、まるで2回目のヤシマ作戦だ。正直何で「槍」を作れたのか、設定を理解しきれていないのだがめちゃめちゃ盛り上がったので気にしない。
この後から始まるシンジとゲンドウの交流はいうまでもない。自分の中では「すれ違う親子キャラ」の代名詞的存在だったシンジとゲンドウがこれまでの時間を埋めるように言葉を交わした。「父さんのことが理解したい」と歩み寄るシンジも良かったし、それに引きづられるように自分のこれまでの人生、ユイへの想い、自分が抱いている恐れを吐露するゲンドウも良かった。
あれだけ「人を捨てた」と言ってた割にシンジが歩み寄ってきた瞬間に動揺しまくってATフィールド展開するゲンドウが若干可愛いとさえ思ってしまった。いくらなんでも精神がガラガラと崩れだすのが早くないか。プレスターンバトルで「onemore!」され続けるボスに見えなくもない。
最後にゲンドウは自分が探し続けたユイは自分が拒絶した息子の中にいると気づいた。目を逸らしたもの、置き去りにしたものこそが探し求めたものだったとあの碇ゲンドウが気付くという衝撃、そしてそれについて全く違和感を抱かせない場面展開。お見事という他はない。
一方の冬月先生は全編にわたって強キャラ感がマシマシになっていた。ヴィレと繰り広げた艦隊戦もすごいがおそらく気合と根性だけでL結界を耐え続け、体を保っていたと判明した時はもう感服である。新劇場版ではユイへの想いだけでなく、自分の研究室から始まったゲンドウ、ユイの結末を見届けることも大きな動機になっていたのではないか。「敵のボスの師匠」感が凄い。
冬月が去り、ゲンドウが補完計画を「降りた」後、シンジが世界を修復するための新たな槍を届けたのはミサトだった。最期に思い浮かべたのは一度も会えず、しかし14年間見守り続けた息子のこと。ここでシンジではなかったことが良い。
最終局面では本当に、全ての人に救いとそして新たな人生への道筋を与えられたと言って良いと思う。
「碇くんがエヴァに乗らなくても良いように」ずっと初号機のコックピットにいた綾波もシンジに送り出された。あの渚カヲルもシンジから「もう大丈夫」の言葉を貰って繰り返しの物語から解放された。救出されたアスカは体が成長していたように見えた。エヴァの呪縛、シンジとの関係から解き放たれた後は「ケンケン」という居場所にも気づくのだろう。
ゲンドウにとっても補完計画こそ崩壊したが最期はユイと一緒に逝けた?ので最高の終わりだったのろう。ものすごく幸せそうな顔をしていた。勝ち逃げしやがったなと少し思った。初号機と13号機の形が似てる理由は多分個人的な感情が大である。対だの希望だの絶望だの言ってるけど多分後付けの理由ではないだろうか。
そして最後の場面。少し成長してごく普通のスーツを着ているシンジ君(CV神木隆之介)と彼とともに歩み出す、こちらも少し成長したマリ。エヴァンゲリオンの物語は本当にここで終わって、彼らはあの世界で新たな日々を生きるのだと思えた。14歳のシンジ君を演じ続けてくれた緒方恵美さんの声を最後に敢えて使わないことで「終わり」を示したのだ。
本当にエヴァンゲリオンという作品は予想を遥かに超える最高のフィナーレを迎えた。嫌いにならないでいて良かった、劇場に行って良かったと心の底から思えた。もしまだ見ていないという人、興味はあったけどまだエヴァを見たことがないという人もとりあえず新劇場版3作を見た上で劇場に足を運んでもらいたい。
もちろん設定とか各場面の意味とか考えるべきことは山のようにある。理解できていないことの方が正直多いし。特にマリ、大活躍だったにもかかわらず背景がほとんど描かれなかった彼女の存在についてはじっくりと考えようと思う。
今日この時点での自分の感情を忘れないためにこのnoteを投稿する。
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