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遺体もやがて土になるか 5月13日 ウクライナ・ハルキウ郊外

約束の時間を少し過ぎて、旧式のエンジン音をたてながら1台の古い車が現れた。
ソビエト時代の自動車、LADAだ。何十年前のだろうか。いまもウクライナでは旧ソビエト時代の車がたくさん走っている。見た目は角ばっていてかわいいから一度は乗ってみたいと思っていたが、ちゃんと走って無事帰ってこれるのか、少し心配になった。

その車の窓から手を降っているのは通訳のサーシャ。助手席には彼の友人セルゲイ。二人とも今は避難所に救援物資を配るボランティアをやっている。
数日前から彼らに同行する約束をしていて、通訳代やガソリン代と救援物資の購入資金をこちらが支払うという条件で、車に同乗させてもらうのだ。
(みなさんから頂いた活動支援金をいただいており、非常に助かっています。サーシャもお礼を言っていました)
そしてボランティアついでに他の村も回って取材しようということだった。事前に「必ず防弾ベストは持ってきてね」と言われていた。

通訳をしてくれるサーシャ
彼の愛車LADAの背もたれシートには
彼の防弾ベストが常備

5月10日にウクライナ軍はハルキウ州を奪還したというが、地元の人曰く、実際のところ掃討が終わらず、まだ小さな戦闘は続いているようだ。それにロシア軍を追い返したとて、ミサイル攻撃が無くなるわけではない。
11日にマラヤロハニ村を取材しているときにも1kmほど先にミサイル攻撃があった。


取材の映像は以下。

徐々に村はロシア軍から解放され、少しづつジャーナリスト達も立ち入りが許されるようにもなったが、ハルキウではプレスツアーのようなものもなく、各々が独自で動いている。
今日はその解放された村のうちの一つ、ビルヒウカ村に向かおうと話をしていた。ロシアとの国境からは約25キロ地点。

まずは大きめのスーパーに立ち寄りリンゴやバナナを箱買い、パンやお菓子、トイレットペーパーなども大量に買った。ハルキウ市内の避難所へどんどん降ろしていく。
サーシャたちは事前にテレグラムのグループで何が必要かを聞いていたようで、効率よく必要なものを必要なだけ渡していく。こういったテレグラムの使い方は香港民主化デモでも見た覚えがある。街中でも政府からの食事の配給のようなものを見かけたが、細かいところは自分たちで助け合う、ということが徹底している。

道中、ウクライナ軍の戦車と何度かすれ違う。
また、米軍の輸送車両ハンビーが走っているのを見かけた。アメリカがウクライナへ供与しているものだろう。

ボランティアの仕事の途中から道を逸れ、ハルキウ市外へ向かおうとするが、検問所を通過する許可が得られなかった。検問をしていた兵士は、昨日、市外へ出たイタリア人ジャーナリストが行方不明になった、と説明した。本当だろうか。
私が泊まっている宿にもアメリカ、イギリス、イタリア等のジャーナリストたちが滞在しているが、彼らからそんな話が出たことはない。

サーシャが「大丈夫だ、別の道があるから」とハンドルを回す。そして細い、田舎道を走り出した途端 
、サーシャが「あれを見ろ」と言った。アスファルトの道路脇にミサイルが突き刺さっている。不発弾だ。その脇を車がスピードを落とさずにビュンビュンと走っていくので私たちは離れた。

ミサイルの不発弾

しばらく行くと、また検問所。サーシャが警備している兵士たちへ救援物資の箱に残ったリンゴやバナナを手渡していく。無事通過。
「これでハルキウ市の外へ出れたよ、念の為、防弾ベストを装着してね」とサーシャが言う。

サーシャも自前の防弾ベストを車に積んでいる。
ベストは防弾とはいえ、ライフルで至近距離で撃たれたら簡単に貫通するだろう。地雷などの爆発で飛散物から内蔵をやられないようにするためだ。

最初に訪れたのは郊外のショッピングモール。一階にはスーパーが入っていたらしいのだが、ミサイル着弾ですべて吹き飛んでいる。二階はゲームセンターがあったらしく、ゲームコーナーらしき残骸に囲まれるように3人の男がいた。うち二人は警備員らしいのだが、座り込んでいる一人の男は泥棒だという。
こういう例は珍しくないらしい。その後、警備員は警察を呼んだが、警察は特に逮捕するわけでもなく、男を解放していた。

遠く、北の方角に黒い煙があがっているのが見える。ロシアとの国境近くだろうなと想像する。道路脇に戦車に踏まれて潰れた自動車、丸焦げになったロシア軍の戦車、動かなくなったウクライナ軍の戦車が放置されている。低い、榴弾砲の音が北の方角から、2,3分に一度聞えてくる。通りがかったウクライナ軍兵士が「この辺にロシアのスナイパーが潜んでいるかもしれないから、くれぐれも気をつけるように」と言った。

サーシャの友人、セルゲイ
彼は動物愛護のボランティアもやっており
野良犬を見つける度に餌や水をやっていた、心優しい人だ

途中、ロシア軍の燃え残った大型輸送車両が野原に放置されていた。近くに人がいるので、声をかけて近づく。アスファルト以外の地面は地雷が埋められている可能性がある。
「あれを撮ろう!俺の後ろをついてきて」とサーシャは言った。サーシャはGoProを持っていて、彼自身も映像を撮っている。恐る恐る近づいたが、車両近くにいた人たちは燃え残った弾薬を記念に拾い集めていた。

そのあと学校へ向かった。ここはロシア兵が拠点にしていたところだ。その後、ウクライナ軍が徹底的に攻撃したようで、学校のほとんどが丸焦げだった。校庭を歩くのも地雷が怖いので、サーシャの後に続く。学校の外にイタリアとカナダのプレスが5、6人いた。同じ宿の顔見知りだ。彼らも来たばかりで、中には入っていないという。
サーシャを先頭に黒焦げの廊下を歩いていく。床が抜け落ちているところがほとんどだ。ロシア兵のヘルメットがいくつも転がっているが、ペラペラのものだった。
こんな第二次大戦のような装備で戦わされているとは気の毒にもなる。対戦車用のRPGランチャーやロケット弾の安定翼、野戦服もたくさん残っていた。
庭にロシア兵の遺体が転がっていたが、パンパンに膨れてしまっていた。遺体が回収されないのを知っているロシア兵は、かなり士気が下がっているのだろうなと思う。

ロシア兵のヘルメット
側に缶詰の携行食あったが
彼らの残留物はどこでも同じ種類のものしか見かけない

イタリア人のカメラマンが「外でヘリが飛んでる音がする。念の為、室内に5分待機しよう」と言った。確かにさっきから音は気になっていたのだが、なかなか機影が確認できない。
我らの旧ソ連の自動車、LADAに戻って、サーシャの友人セルゲイが残っていたバナナ一本もぎとり、ホイッと放り投げてきた。甘くてうまい。セルゲイは食べ終わったバナナの皮を草むらに放り投げる。私も続いて放り投げる。そのうちそれは土になる。回収されない遺体もそのまま土になるのだろうか。

かろうじて直撃を免れた学校のホール
窓は全て吹き飛んでいるので風がそのまま通っていく

村の人に話を聞きたいが、人の姿が全くない。生活する音も聞こえない。

遠くに破壊されたロシア軍の装甲車両が畑のなかにポツンと残っている。サーシャが「様子を見にいってみよう」というので続いていく。
畑の入り口に対戦車RPGの発射機が転がっていた。装甲車から距離は50mほどのところだ。私は武器には全然詳しくないが、これは少し新しいタイプで、発射機がプラスチック製の使い捨てになっているやつだ。おそらくこれであの装甲車を潰したのだろう。

一旦、また別の避難所に物資を持っていく。そこは、ある学校の地下室で、避難している青年が案内してくれた。完全に暗闇だ。遠くでペンライトの光がチラチラと見える。ただ、暗くてどのぐらいの広さなのかがわからない。
ここにいるほとんどの人は開戦直後からこの地下室に避難している。「ここには一時は200人ほどいたけど、いまは50人ぐらい。この地下には猫も5匹いる。ハムスターもいるんだよ」と言った。ここから出ていった人は国外、もしくは西部に避難したか、あとは自宅に戻った人もいる。
だんだんと目が慣れてきた。この地下はかなり広いらしい。もう2ヶ月もここで暮らしているというおばあさんが「コーヒーにするかい?紅茶にするかい?」と声をかけてくれた。遠慮しつつ、困ってることはありませんか?と聞いた。「わたしたちは協力しあっているから何も問題はない」と言い切って笑った。
ソビエト時代を経験している人たちは精神的に強い。暗闇で2ヶ月以上も過ごしていると言うのに。

地下避難所にいたハムスター、名前はスラヴィク
訪れたボランティアの人が名付けたらしい

その小学校の周辺を歩く。周辺は団地になっていて、集合住宅が密集しているが、どこも穴だらけで、崩れている建物がかなり多い。数で言えば、キーウ近郊のボロディアンカの比じゃない。むしろまともに建っているアパートのほうが少ないぐらいだ。まともそうに見えても、爆風で窓がすべて吹き飛んでいたりする。
これほどの被害がある集合住宅は簡単には復旧できないだろう。一旦すべて崩して、建て直すのだろうか。復興に何年かかるのだろう。10年などでは済まない気がする。
ここもロシアとの国境が近いせいか、地元の人いわく、ミサイルだけじゃなく、爆撃機からのミサイル発射も多いという。その地元の人は「妻と子が避難して、避難先で新しい男ができたんだ。精神的にもうボロボロだ。子供に会いたい。仕事もなく、金もないから崩れた部屋の復旧もまともにできない」と言った。活動支援金から1000フリブニャ渡した。こういうお金に困っている人には、どんどん直接お金を渡していくことが今はとりあえず、まだましな選択な気がする。

避難所になっていた学校も地上部分はかなり破壊されていたが
戦争資料室という教室は無事だった

もう少し暗くなってきたので、そろそろ宿に戻ろうということになった。帰る途中、かなり古い、そして名門だという学校に立ち寄った。ここも屋根は焼け落ち、瓦礫まみれの廃墟だ。
学校と言われないと全くわからない。校庭だけは被害が少なく概ね無事で、学生らが楽しそうに声を出しながらサッカーをしていた。

ボールが飛んできたので拾って投げ返すと
「スパシーバ」と礼を言われる
キーウより東ではロシア語も日常的に耳にする

宿に戻り、サーシャに追加の経費を支払い、また次の約束をした。
部屋にいこうとロビーを横切ろうとしたら、宿のおばさんが通せんぼをして、人差し指を振る。「ディナー!」と言った。お節介なおばさんはどこにでもいるが、この優しさが疲れた体の身に染みる。今日は午後から天気がよかったせいか、夕焼けが綺麗だった。

夜、遠くでミサイルが着弾するような音が振動と共に聞こえるが、宿にいるカメラマンたちも、もう誰も窓から顔を出さない。ミサイル一発では、もはやニュースにならなくなったということだろうか。

noteの閲覧数が確認できるのだけど、ウクライナに来た3月の一番はじめの投稿から閲覧数が16分の1になっていた。16人見ていたのが今は1人ということで計算あってるのだろうか。急速に関心が薄れていっているのだなあと思った。

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