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イギリス・ピースヘイブン

夢の中にいるような感覚になる現象って何ていうのだろうか。全く知らない街を夜中に自転車で走ったり、寝不足の状態でどこかにたどり着いた時に感じる、地に足が着いていないふわふわした感覚のこと。

ロンドンの友人宅に居候中、一人で遠出してブライトンにあるピースヘイブンという町を訪れた。それはブライトンに向かう列車の中でGoogle Mapsを触っていたらたまたま見つけた。町の名前が気に入っただけでそれ以外の理由はない。ピースヘイブン。「Peacehaven」。平和な安息地。海沿いにあるようだ。

調べてみると、第一次世界大戦時に退役軍人の療養のために作られた町らしい。都市の汚染から離れ、自然に囲まれて過ごせる保養地のようなものだろうか。土地が安かったため、その後は労働者階級や中産階級が手に入る材料を使って自力で別荘のようなものを建てて町を拡大していったらしい。

ブライトンビーチからバスに乗って30分ほど海沿いを走る。バスは香港でよく乗っていた赤いダブルデッカータイプとほとんど同じもの。というより、こちらが本家本元だ。窓からイギリス海峡の海が見える。海の向こうはフランス。雲が低く、明るさはない。

ピースヘイブンの町に入ったところでバスを降りた。降りた乗客は3人ですぐにどこかへ行ってしまった。レンガ造りの家が並ぶ。中心部とも言えないような小さな交差点に木材店のようなものがあり、町を切り開いていた頃の余熱のようなものをわずかに感じる。

海の方へ向かって歩いてみた。海までの狭い面積に住宅が密集しているが、人の姿はなく静か。ぽつぽつ歩いていると住宅地をすぐに通り抜けてしまい、海に出てしまった。ブライトンのようなビーチではなく、崖になっていた。その崖っぷちにピースヘイブンの家々が並んでいたような感じだった。崖の下は50mぐらいか。海沿いのずっと遠くに観光地として有名なセブン・シスターズという白い崖が霞んで見えた。遠くからでも石灰岩が露出していて白くなっているのが見える。一生に一度は見たいイギリスの絶景ということらしい。こちらピースヘイブンの崖は黄土色。

天気は悪く、霧と波しぶきが混ざったような風が吹いている。飛び降り自殺をする人がいるのだろう。崖沿いのフェンスにホットラインの電話番号の掲示がある。奇妙な場所だなと思った。崖を降りられるように階段があったので降りてみる。

崖を降りても誰もおらず、荒れた波で寂しい風景が広がっていた。海水を打ちつける防波堤に沿って歩けるようになっていた。

防波堤に落書きがいくつもあった。「Mr.Bean was here.」と書いてあるものが多い。「Mr.Bean」と書かれた傍に人が死んだ跡のようにチョークで人型を描いたものもあって不気味な感じがした。どういうことだろうか。ミスター・ビーンはローワン・アトキンソンのコメディ番組である。彼の狂信的なファンなのだろうか。熱を入れすぎたあまりアイデンティティが同一化し、彼自身がミスター・ビーンになってしまったのか。英語ではない外国の文字も一緒に並んでいる。外国からわざわざここに来たのか。ミスター・ビーンを探しに。自分のことは棚に上げ、その人はなぜこんなところまで来たのだろうと考える。そういえば、EminemのStanという曲がそんな感じだった。

荒れた海をしばらく眺めて崖の上へ戻り、地図を見ずに適当に歩いた。丘の上に白い家ばかり並んでいるのが見えたので、そこに向かう。近づいてみると奇妙な感じだった。家の全てが白い綺麗な家だ。よく見てみると家の土台に車輪が着いたモーターホームだった。相変わらず人の姿はない。

動くものがなく、生活音もない。風が吹いているが揺れるような植物もない。映画のセットに近い。この妙な感じが形容し難いが、キリコが描く世界に迷い込んだような、現実を超えた町のような感じだ。人工的でなんだかつるつるとしていて、ふわふわとした風景。モーターホームが立ち並ぶ場所からはさっきまでいた海がわずかに小さく見える。

そのエリアを抜けると不動産屋の看板があった。ここは別荘用地らしい。物件のオーナーはここでどのように過ごすのだろう。ピースヘイブン。平和な安息地。天気のせいもあると思うが、少し寂しい場所だなと思った。

列車に乗り、ロンドンの友人宅へ戻る途中に、路上に変なものが落ちているのに気づいた。近づいてみると、赤い魚だった。頭が落とされている。この日はよくわからない風景が目の前を展開していった。


東京に帰ってからミスタービーンのことを後で調べてみたが、なんのことはなかった。ピースヘイブンの崖の下で番組の収録をしたらしい。そうだったのか。よかったよかった。






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