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やっぱり、人間はあはれっぽい

 人類史の長さに比べて、人っ子一人の一生なんてとても短いもの。
一生のうちに会える人の数も、触れられる文化の数も限られてしまう。
生まれたときに所属していたコミュニティ内で、大半の人生は終る。

 そう思えば、人が一生のうちで培ってきた価値観や感覚みたいなものなんて大した意味はないのかもしれない。

 それなら例えば、自分を正しいものだと思って(錯覚して)、他の自分とは違う価値観や感覚を持つことを否定したり、受け入れなかったりするなんてことも多分、たいして意味がないのかもしれない。

それなら、人の自分とは違う価値観や感覚は、「そういう考え方もあるんだな」くらいの感じで、正しい正しくないの判断をせずに受け入れるくらいが誰も傷つけないんじゃないかと僕は思う。

でも、難しいのは『自分は正しい道を歩んでいるという感覚』は安心感を得ることができるし、正しいかよくわからない状態を受け入れるっていうのは一定の不安を持ち続けることになる。それが多くの人にとっては厳しいものがあるということだ。

ゆえに人は自分の心の安定のために、自分と違うものを否定したくなってしまう。困ったもんだ。自分と違う考えを受け入れるという行為に苦しみがあるなんて。

じゃあ、そもそもなぜ『正しさ』を人は求めるのだろうか

多分答えは簡単で
「そもそも僕たちはなぜ生まれ、生きているのか?」という問いに絶対的な答えをほとんどの人が見つけられていないから。

多くの人にとってはそんなこと考えたことがないだろうけど。

 時代によってはそれに気づいた人間がいた。
その問の答えを探そうとして生まれた学問が哲学ではないかと思うし。
その問の答えを本当に見つけることができたのかは知らないが、答えを導き出したのが宗教と呼ばれているものだと僕は思っている。

この問の答えは科学では導き出せないものであるから。哲学や宗教はやっぱり人にとって生きる上で大切な物だったんだろうなとも感じる。

話が少しずれたが、
人間は不安定であはれな生き物だなぁと思ったって話でした。
最初にいったように、考えは正しいかよくわからない状態を受け入れることでより深い認識ができるようになると思う。
ちょっとしんどいけど、みんなに優しく生きてみたい。

これが僕の哲学かも。

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