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【第8話】2年秋、超距離が走れない

どうも。川瀬です。
筑波のグラデーションのサブユニはこの頃に作ったものだったなと写真を見て思い返しました笑

前回は絶好調だった2年の春シーズンについて書きました。初めての青桐は緊張したなあ。
青桐というのは筑波大の選手でも大きな公式試合でしか着ることの許されない特別なユニフォームです。箱根駅伝は青桐、箱根駅伝予選会は白桐だった感じです!

さて、絶好調だった春シーズンを終え、いよいよ鍛錬の夏に入る。
1年生の頃に比べて、走力も自信もつけてきた。6月には初10000mにも挑戦しており、チームに貢献はできなかったが戦力として数えてもらえるまでには成長した。

そんな中で迎えた夏合宿。3月から7月の試合まで良い調子をキープし続けた自分はここから段々と調子を落としていく。調子とはそういうものだから仕方がない。
しかし、あまりにも走れなかった。不調で走れないことや距離走など長い距離の練習が苦手なことに加えて足底腱膜炎になり、痛みを我慢して走ると16キロ過ぎたあたりから足全体が痺れてくる。距離走もジョグもまともにできなかった。

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そして7月、8月、9月と練習を6割程度の達成率で過ぎ去ってしまう。しかしチームのみんなも疲労困憊だった。同じくらいしか走れておらず、このまま行けば最後の調整で疲労が抜けて爆走できるのか?なんて思った。
今思い返せばこの考えの時点で練習が受け身の姿勢だった。
(何も考えずに陸上をしているのがよく分かるが、20㎞の試合に向けての練習が初めてすぎて分からないことだらけだった)

9月、10000mに出場し、31'24。6月よりも遅い。
そして案の定、箱根駅伝予選会は20km:63'04の凡走に終わる(僕が3年生までは箱根駅伝予選会は20キロだった) 。チームも惨敗だった。

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その後も11月に10000mで31'09
12月に10000mで31'08。ひたすらに凡走を重ね、2年の秋シーズンが終わった。
(チームでは12月の記録会は2人ほど大幅自己ベストも出て悪くはなかった)

僕は5000mを超える距離が走れなかったのである。長距離が走れなかったのだ。

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・振り返り
まず、個人。今でもジョグでたくさん走れるタイプの人間ではないのですが、この頃は特に酷かったです。ジョグが全然できず、30分や40分すごくゆっくり走って終わりなんてことばかりでした。
ジョグができないのにその延長の距離走がこなせるわけがなく。その練習通りの結果が10000mや箱根駅伝予選会でした。
言われた練習(ポイント練習)をこなすだけで、自分がやらなきゃいけない練習や、課題が分かっていなかったと言うよりそもそも考えようとしていませんでした。考えるという選択肢を持ち合わせていない人間でした。

そしてこの時のチームは、予選会を走る10人が練習ですぐ分かるくらい10人しか走れておらず、不調の選手のが多いが、この10人だなとしか考えられない状況でした。僕が2年生の時は選手選考は全くありませんでした。危機感とか一緒に強くなる、ライバル心などチームでやっててプラスになることが足りなかったです。

とても3年後に箱根駅伝に行けるとは思えませんよね笑
でもこの時の4年生の先輩たちが1番自分自身にも他人にも厳しかった気がします。特に駅伝主将だった勝谷さんには違う練習がやりたいと言うと大体「なんで?なんで?」と強く聞き返された気がします。もっとちゃんと勝谷さんの言うことを聞いていれば考える癖を身につけて秋シーズンを棒に振ることもなかったかもしれません。

このことだけじゃなく、色んなところに先輩たちはちゃんと種を撒いてくれていました。そんなことに気付くのも自分が4年生になった時なのですが笑

ちなみに今でもヤバいと思うのは合宿所で20畳の部屋に21人で泊まったこと。

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というわけで、輝かしい春シーズンの影となってしまった秋シーズンでした。
次回は冬季、そして3年生へ、、、ですね。
お楽しみに!!


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