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どこからが教育虐待だろうか

「幼児に英語の本を読み聞かせるのは教育虐待」
みたいなことをどこかで読んで、ものすごい違和感を覚えた。

なんなんだ、一生懸命な母をディスるような風潮。
少子化なんだから、メディアはもうちょっとましな取り上げ方をしろよ、とちょっと憤慨。


何かをしたら教育虐待というわけじゃない

たとえ0歳児であろうと、英語の本の読み聞かせをしたら即教育虐待というのはどう考えてもおかしい。
これは、2歳児に囲碁とか、3歳児に卓球とか、4歳児に数学でも同じ。

基準は、子どものキャパオーバーかどうか。
年齢と何をするかが基準ではない。

子どもが何歳でも、英語の本を読み聞かせて子どもが喜ぶなら読み聞かせたらいい。喜ぶまでいかなくても、それが理由で苦痛を感じ、泣き叫ぶほど嫌がるのでなければやってもいい。
言語が何であれ、親が絵本を読み聞かせて泣き叫ぶ幼児って聞いたことがないが。

0歳児の段階で「英語の絵本の読み聞かせ」として仕込んでいるからこそ、3、4歳になったときに英語の本が好きになることだってあり得る。
「年齢が低いのにそんなことをするなんて・・・」
というあやふやな理由で批判してはいけない。

逆に、親が何も働きかけないで、子どもが自由に好きなことをさせておくというのは響きはいいが、何もできない子になってしまうかもしれない。

それはまずい。
そっちの方が教育虐待ではないか。

もちろん、親がしんどくてできないなら無理しなくていい。
無理して、義務感でやってもよい結果にはなりにくい。
でも、子どもが笑顔になったら、楽しくて「もう一回」とせがまれて親が無理するのは悪いとは思わない。

結論、何をいつするかが基準ではない、どれだけするかが基準である。

我が家の0歳児教育

生後2ヶ月ですが、誕生した日から知育はしている。

語りかけ、歌い聞かせ、読み聞かせ。
まだ、反応もないし、目も見えない。
それでもする。
べつに知育という意識もあまりなく、自然に、あたりまえに、コミュニケーションの一環として。

「語りかけ」がいいってよくいうけれど、「語りかけ」は難しい。レスポンスがなく、親の独り言になるから。
そんな長い時間、独り言を言える人ばかりではない。
子どもが動き出したら実況中継してあげたら、語りかけになるけれど、生後2ヶ月だとそうもいかない。

だから、読み聞かせる。
絵が見えてなくてもいい。
親の声で読み聞かせれば、それは語りかけでもある。

読み聞かせの成果

上の子たちの時は、がむしゃらに読み聞かせしていた。
「量質転化だ」とか「絵本への投資は惜しまない」とか言いながら。1日50冊くらい(ここでの50冊は、厳密には50回で同じ本を2回読んだら2冊とカウント)。
夫婦でノルマ的に。
生後1年後には、2人とものべ10,000回を突破。
あ、記録も取っていたので、いつ何冊かも残っている。

がんばった感はあるけど、結局、子どもと遊んでいるのと一緒。
「だーるーまーさんが・・・どてっ」
って一緒に転がったり。
「キャハハハハ」
と笑うから、それを見たくてエンドレスでやる。

小学校の高学年になってどうなっているかというと、2人とも本好きではある。1日30〜1時間はあたり前に読書をする。
小6の受験生でも毎日読んでいるし、国語の題材で気に入ったのがあればすぐに本をせがんでくる。

そして、2人とも読むのが速い。
気に入れば、文庫本を届いたその日に読破ということもあるくらいに。
親より読んでいるんじゃないか、ってくらい読む。
相変わらず本への投資は惜しんでいない。

ただ、それが読み聞かせの効果かどうかはわからない。
何せ、読み聞かせしなかったバージョンの子育てをしていないから。これができないのが教育の研究の難しいところ。

読み聞かせをゆるやかに卒業した後、自立読みに移行し、文庫本にハマるまでにはかなりいろいろな手を打った。

詳しくはこちらを。

だから状況に応じて、第3子でも手は打つのだろう。

本に触れること、お話を楽しめる気持ち、文字や漢字が読める力、は上げられるだけ上げておく。

読み聞かせの変化

2人の子育ての経験から感じたのは、数だけで質への転化はしない。
1冊の濃度の方が、より早く本好きになるためには重要ではないか。
濃度の上げ方をを研究する。

読み聞かせでいろいろな土台を築くことができるのは間違いない。「土台」とは何かと言えば、「興味の芽」。
だから、他ジャンルのいろんなものに興味を持てるよう、つまり、基礎知識が備わるように絵本だけでなく、さまざまな本を読み聞かせていく。

たとえば、図鑑とか、宮沢賢治とか論語とか。
とりあえず、理科の図鑑は絵もきれいだから、読み聞かせてみている。今は、太陽とか地球とかオゾン層とかの話。

絵本ばかりを読んでしまうと、絵本を卒業するのが難しくなる。だから、絵のない本・・・というか、言葉がきれいな本を朗読するつもり。まだやっていないが。

これは、テレビやYouTubeから入ると、本に戻れないのと同じ。努力しなくても楽しめる順に、
動画>漫画>絵本>本
となる。つまり、本は自分で想像しなくちゃいけないから、一番大変。だけど、自分で想像したら無限だから、一番楽しいとも言える。

先に絵本ばかりにしてしまうと、絵を想像する習慣がつかない。だから、絵のない物語を朗読して想像するのがあたりまえにしておく。・・・という仮説。

要するに、先に動画を見せるから絵本に戻りにくくなります。ちなみに、YouTubeはおろか、テレビも見せない。

虐待ですか? いや、逆でしょう。

中学生で「勉強しろ」と言われたって、学習習慣がついていなかったらきつい。あたり前に学習するようにしておくと、本人が辛くない。

小学生の高学年になって「本を読め」と言われてもおもしろさがわからないから苦行でしかない。だったら、本のおもしろさがわかる子にしておくのは「教育」にちがいない。

幼児期にそれだけ下ごしらえすると、「勉強しろ」「本を読め」という「虐待ワード」を使わなくてもすむ子になる。


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