「幸せがこわい」と感じた日のこと〜岸田ひろ実のコーチングな日々〜
2020年が終わろうとしていた日のこと。生まれてはじめて味わう感情が生まれました。それは・・・。
「幸せがこわい」
こう書くと、これまで私はどれだけ幸せとは縁遠かったのかと思われてしまいそうだけど、そういうあれではなくて。
幸せとは、私が必死で努力をしたとか、八百万の神様に祈りまくったとか。自ら何かをした結果、感じられるものだと思っていました。
何となくだけど、幸せの定義を私なりにそう決めていました。
しかしその定義が覆されました。
何もしていないのに「幸せ」が私のところに、勝手に、どんどんやってきたのです。
こわい。
不意打ちに訪れる幸せが・・・。
こわい。
実は私がこわいと感じるこの「幸せ」の正体は、娘からのギフト。贈りものでした。
娘が本の印税を全部つかって、私が生きているうちにもう一度乗りたいと願っていた車、ボルボを買ってくれたのです。
ボルボは亡き夫がこよなく愛した車。家族の思い出がギュッといっぱいつまった思い出の車。
もう一度乗りたいと願っていたのは、おそらく乗れないとわかっていたからです。どう考えても今の私には外車を買って維持できる経済的な余裕はありません。
だから、そうなったらいいなってフワッと願う夢でした。
それが。
なんでもない、ある日。突然にその時がやってきたのです。
「ボルボ、買ってあげる」
「飴ちゃん、買ってあげる」と同じノリで娘から言われたのです。
えっ?
とはいえ、こういうノリはいつものこと。
娘が面白いことをサラッと言うのは日常茶飯事なのです。
また面白いこと言ってるなと、いつものように受け流していました。しかしなんだかいつもと様子が違っていました。
「来週、ボルボ買いに行くから予定あけといてな」
えっ?
狐につままれたのか、つままれていないのかもよくわからないまま、あれよあれよとことが上手いこと進み・・・。
これこのように、娘は私にボルボを買ってくれました↓↓↓
いや、こんなことがあっていいのでしょうか?
私は何もしていないのに、こんな良いめにあっていいのでしょうか?
こわい、こわい、こわい。
幸せが、
幸せが、
なんだか、
こわい。
そして、本当にボルボがうちにやってきました。
そして、私は毎日、ウキウキしながらボルボを運転して、あちこち出かけています。
「テッテレ〜!」って、いつか赤ヘルでプラカードを持った誰かが現れるんじゃないかと、毎日ドキドキしながら。
実はこれだけでなく。
他にも、ボルボと同じくらいに「こわい」と思うくらいの幸せがありました。
私がして欲しいと思っていたこと全てを、娘がしてくれたことです。
たびたび帰ってきては家の大掃除をしてくれたり。
ベランダに住み着こうとしている鳩がやってこないように、鳩よけネットをつけてくれたり。
汚れたカーテンを付け替えてくれたり。
美味しいご飯を作ってくれたり。
買い物につきあってくれたり。
露天風呂がついた部屋で一泊旅行までさせてくれたり。
私がお願いしたり頼んだりしたからではなく、先回りして何でもかんでもしてくれるのです。
嬉しくて、嬉しくて。
有り難くて、有り難くて。
その度に泣きそうになります。
幸せがこわい。
こんなにもたくさんの幸せが訪れるということは、
私、明日死ぬのかな・・・。
本気でマジメに心配で、不安になってきました。
幸せとは嬉しい気持ちになるだけでなく、その真逆の気持ち、こわいと感じてしまうこともあるんだと、初めて知りました。
もう1つ知れたこと。
それは、私にとっての幸せは娘に何かしてもらうことだけでなく、その上があったということ。
喜ぶ私を見て喜んでくれる娘がいてくれること。
楽しそうに、幸せに、笑顔で暮らしている娘の姿を見ていられること。
それが私にとっての最高の幸せだったのです。
幸せすぎると、明日死ぬかもしれないと思うくらいにこわくて不安になってしまうこともある。
それでも幸せだと感じる瞬間はとても素晴らしく。
この世で最も尊く、美しいのは、誰かのためになにかしたいと願うこと。
そして、そうすること、そうされることこそが最高の幸せなのでした。
幸せはこわがるものではなく、しっかりと受け取ること。感じること。
そして、幸せな私から、ありったけの幸せを娘に贈り続けたいと思います。
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